子育てのとき、
このように育ってほしい、と思い、
それを実現するためにしつけますね。
でも、それは自分の価値観の押しつけかもしれません。
人にどう育ってほしいと思えばよいのか、
そんなことを考えて書いた記事。
2017年10月13日の投稿です。
「普通でいることの勇気」って言葉。おやっと思いませんか?
普通でいることに勇気がいるのか?
そうなんですね。実は、この言葉の背景には、何万年にもわたる人類の発達の歴史が隠されているのです。
ただし、以下の説明は、あくまで私独自の解釈ですよ。
人類は4本の足のうち前の2本の足でモノを掴んだりすることを覚え、立って歩くことにつながりました。
手として使うことにより脳が発達し、どんどん頭部が大きくなっていきました。
胎内にあるとき、すでに脳が発達し頭が大きい状態になりました。
しかし、産道の太さには限界がありますから、歩いたり目が見えたりする能力が発達しない状態で出産せざるを得ませんでした。
そのため、人間の生まれたての状態は、他の動物に比べて著しく未発達ですね。
ですので、お乳をもらったり食べ物を与えてもらうために、泣いて親の注目をひく必要があったのです。
その結果、乳児のときに、「私は弱い。他者は強い」という信念が生まれ、他者の関心をひくことが重要になりました。この信念を親の保護が必要でなくなった大人になっても持ち続けることがありますね。
しかも、親は子どもを育てるときに、子どもが何か特別なことをしたとき、例えば勉強が良くできたとか、反対に悪いことをしたときだけ、ほめる、叱るという方法で認めるということをしました。
それで、子どもたちは、自分が親の関心をひくためには、良いか悪いかという特別な人でなければいけないと思い込むようになりました。
それで、特別な人ではない普通の人でいることには勇気が必要になったというわけなのです。
「普通でいること」というのは自己受容につながることです。
自分は欠点もあるけれども、このままでいいのだ。別に他者の注目をひかなくてもいいのだ、ということです。
これは言い換えると、他者が要求する人生を生きることをやめて、自分の価値観で自分の人生を生きるということです。
「自分は基本的にこのままでよい。そして、対人関係を回避せず、他者と協力して共同体に貢献しよう。また、必要なときには他者の協力も求めてもいいのだ。」
この状態を「自立」といいます。
教育の目的はこのような自立した人間を育てることにあるのです。