会津若松市の公式サイトとして
「八重と会津博」というサイトがあります。
有志でそこに書いてある大河ドラマ館(会津若松市)を訪問してみようという話になっています。
ブログを充実させるのには画像や動画が不可欠。
なんていう理屈をつけてなんとか出かけようという魂胆。
このサイトの趣旨は
というものです。そのサイトに京都時代の八重についての以下の記述があります。
幕末から明治維新にかけて生きた人々がどのように西洋を受け入れていったのか、欧米文化学科としてはとても興味があります。
このあたりのヒントを会津若松訪問で得られればと思っていますが、修学旅行の時のようにスケジュールをノートにまとめて出かけようと思っています。
ちなみに大河ドラマ館のオープンは1月12日です。
初日には無理なのでその次の週に行ってきます。

「八重と会津博」というサイトがあります。
有志でそこに書いてある大河ドラマ館(会津若松市)を訪問してみようという話になっています。
ブログを充実させるのには画像や動画が不可欠。
なんていう理屈をつけてなんとか出かけようという魂胆。
このサイトの趣旨は
というものです。そのサイトに京都時代の八重についての以下の記述があります。
京都時代
戊辰戦争後、八重は母と姪と共に、兄を頼って京都へ赴きます。
明治8(1875)年、覚馬と交流のあった新島襄と出会い、婚約。
同年に、襄と覚馬と共に同志社英学校を開校し、これが現在の同志社大学の基礎となっています。翌年には、J.Dデヴィスから洗礼を受けてクリスチャンとなり、キリスト教式の結婚式を行いました。日本人クリスチャンのキリスト教式結婚式は、これが京都初だといわれています。
襄はアメリカ帰りの帰国子女だったために、八重も襄に倣って西洋文化を取り入れた生活をしていました。また夫婦仲も大変よく、2人でよく旅行にも出かけています。
幕末から明治維新にかけて生きた人々がどのように西洋を受け入れていったのか、欧米文化学科としてはとても興味があります。
このあたりのヒントを会津若松訪問で得られればと思っていますが、修学旅行の時のようにスケジュールをノートにまとめて出かけようと思っています。
ちなみに大河ドラマ館のオープンは1月12日です。
初日には無理なのでその次の週に行ってきます。
