今回の川崎、登戸の殺人事件については、犯人に一滴の同情の余地もないと思います。たとえ、どんな生い立ちであれ、尊い命を奪うことはどんな言い訳も通用しません。特に、亡くなった被害者の女の子の両親のコメントを読んだとき、ほんとうに胸が痛くなりました。人間にとって、一番の不幸は自分の子供を失うことだと昔から思っていたので、この両親の悲しみと絶望は想像することさえできません。かなり前に、同僚が自分の娘を病気で亡くしたとき、その2週間後に同僚が気丈に仕事をこなしている姿を見て、自分ならとてもこんな風にはできないなと思いました。
 罪のない人の命を奪い、その両親を不幸のどん底に陥れた犯人ですが、犯行に至った環境というものが少し明らかになってきました。環境要因が情状酌量の材料になる場合が裁判ではありますが、私は、犯人の情状を酌量したいわけではなく、自戒の思いを込めてその環境を考えたいのです。まず、両親が離婚して、叔父の夫婦に預けられます。そこで、自分の子供のようには扱わず差別を受けていたかのような証言が出ていますが、それを簡単に信じるわけにはいきません。差別されているように見える何かがあったはずです。
 次に、中学などの同級生からの証言がいくつか出てきました。まず「よくいたずらをする」「落ち着きがない」「突然突っかかってくる」「みんなに笑われる」「みんなに無視される」などです。「こういう事件を起こしても驚かなかった」という証言もありました。当時はイジメということが今ほど問題にはなってなかった時代です。もちろん殴られるとか教科書に落書きされるなどのはっきりとした証拠があれば、先生に怒られたり、親が呼ばれたりしますが、無視されるとか笑われるぐらいではイジメと認定されることはなかったでしょう。
 しかし、それ以上に全く言葉さえなかったのが「発達障害」というものです。まず、自閉症スペクトラムですが、これにはいろいろな症状があります。「いたずらをする」という証言がありましたが、これは自閉症スペクトラムの典型的症状です。何故自閉症の子はいたずらをするか。それは、まず面白いからというのがあります。自分のやった行為で相手が驚くのが面白い。ふだん、何をやってもうまくこなせない自閉症の子に対して、周りの子は何でも当たり前のようにこなしていけます。そういう子を予想外の事態に陥らせて驚かせるのが面白いのでしょう。さらに言えば、世の中や自分の周りの世界に対する復讐という面もあります。自分の思いがうまく通じないこの世に対する復讐です。また、自分の存在を知らしめるという面もあります。ふだんは存在していないかのように無視されているわけですから。「落ち着きがない」という証言は、ADHDを持っていた可能性を示すものです。
 これらの生まれつき持っている発達障害にまず親がうまく対応できなかった可能性があります。当時は、そういう言葉がなかったわけですから。単に親の言うことを聞かない手の付けられない子供だということですまされていたのではないでしょうか。
 しかし、学校がこの子を追いつめた責任も大きいと思います。今でこそ発達障害が認知され、それなりのケアが行われているわけですが、当時は全く発達障害の子に対する特別な配慮はありませんでした。この子もいたずらをして怒られただけでしょう。学校は、今も昔も変わりません。学校が認めた価値観からはずれたものを排除するのです。現在は、多様性という言葉の裏に隠れて発達障害の子を選別し、それらの子に対する特別な配慮を行っていますが、やはり学校が認める価値観からはずれた者として排除していることには変わりません。そして、排除された者は、学校や社会に恨みを抱きながら社会に放り出されるわけです。私も、37年間教員をやってきた者の一人として責任を感じずにはいられません。この犯人がどれくらいの就業期間を持っていたかわかりませんが、そこでもうまくいかなかった可能性が高いです。
 最初に言ったように、この犯人の凶行には、どんな環境があったとしても1ミリの同情の余地もありません。しかし、学校や社会が発達障害の傾向がある者に寛容であることは、このようないたましい事件を防ぐ一つの方策になるのではないかと思います。多様性を認めるということは、自分が不快なものの存在認めることです。受け入れることは無理だとしても。