ランドフスカのバッハ《半音階的幻想曲とフーガ》d-moll BWV 903
Johann Sebastian Bach
《Chromatische Fantasie und Fuge》
d-moll BWV 903
今日採り上げるのは、バッハの《半音階的幻想曲とフーガ》ニ短調BWV 903です。
此の曲は、ドイツの作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハが作曲したクラヴィーア(チェンバロ)曲で、バッハのクラヴィーア獨奏作品の中でも特に人氣の有る作品の一つです。
自筆譜が現存していないが故に、作曲時期は明確ではないものの、ヴァイマール時代(-1717年)若しくはケーテン時代(1717年-1723年)に書かれ、1730年前後に改訂が加えられたものと考えられている樣です。新・舊のバッハ全集に、1720年頃の成立と推定される幻想曲の異稿がBWV 903aとして収録されていて、ヴォルフガング・ヴィーマー(Wolfgang Wiemer)は、1720年の妻マリア・バルバラ・バッハの死に際して書かれた「トンボ―」と解釋していますが、確かな根據は有りません。
因みに、ベートーヴェンは此の曲を良く研究していたと云われていて、古典派を完成し且つロマン派を先驅した此の巨匠は、きっと《半音階的幻想曲》の中に嚴格な形式と主歡性の表現の高度な融合を看たのでありましょう。
樂曲は、「幻想曲」と「フーガ」と題された2つの部分で構成されています。
浪漫的で即興的な幻想曲は、屬調へと向かっていく前半と、「レチタティーヴォ」と記され主調に戻っていく後半とに分けて理解する事が出來、前半は樣々なフィギュレーションで構成された華麗なトッカータ様式で進んで行きます。
後半のレチタティーヴォでは、半音階的な極めて激しい轉調が繰り返され、フォルケルは、バッハが即興をおこなう際に「24全ての調」を自然に通過して行ったと記し、「轉調に於けるぎこちなさに就いて、彼は何一つ知らなかった。(...)彼の所謂半音階的幻想曲は、私が茲で云っている事を証明してくれる」と述べています。因みに、此のレチタティーヴォ部分は、バッハがヴァイマール時代に編曲した(BWV 594)アントニオ・ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲「グロッソ・モグール」の第2樂章との關連が指摘されています。
フーガは半音階的な主題に基づく三聲のもので、ゲックは「『フーガ・パテティコ(荘重フーガ)』として、《幻想曲》と調子を合わせる」と、また幻想曲と比較して「客観化への契機であり、幻想曲の苦惱に滿ちた調子を弱める働きをする」と述べていますが、主題の扱いはかなり自由であり、技巧的で長い間奏部や、終盤の左手に現れるオクターヴ奏法の樣に表現的な書法も依然としてみられます。幻想曲と同様に遠隔調への轉調が行われるものの、現れるのは短調に限られています。
今日紹介させて頂くのは、ワンダ・ランドフスカのチェンバロ獨奏に由り1935年7月10日に行われたセッション録音です。
此れは、戰前の代表的な名盤で、俗に「モンスターチェンバロ」と稱された特殊チェンバロに由る壯麗な演奏であると云えましょう。惟、演奏スタイルに關しては、現代のチェンバロ奏者の其れと比較した場合、現在の觀點では幾分古めかしさを感じさせる部分が有りはするものの、其れでもチェンバロの裾野を廣げた先驅者の演奏として決して無視し得ないものが有るのではないでしょうか?
ランドフスカの演奏は、學究的という以上に、チェンバロ奏者としての自由な創造力に溢れたものであり、其處には自身の高い教養をも覆す程の音樂性とでも云い得る安直に正統派とか高踏派と謂った枠には嵌められない大膽な即興性が感じられ、熱っぽさを帶びた演奏の中に、藝術性と人格とが矛盾無く共存していると云い得るのではないでしょうか。
演奏メンバーは以下の通りです:
Wanda Landowska (Cembalo)
(1935.07.10)
(1935.07.10)