ディッタ・パーストリのバルトーク《組曲第2番》

 

Béla Bartók

Suite für zwei Klaviere Op.4b Sz.115a

 

 

 

  今日採り上げるのは、バルトークの《2臺のピアノの為の組曲》作品4b Sz.115aです。

 

  バルトークは管弦樂の為の組曲第1番作品3に續いて、第2番作品4を1907年に書き上げ、1941年に此れをピアノ獨奏の為の組曲に編曲してSz.115aとしています。

  又、1937年には、《2臺のピアノと打樂器の為のソナタ》Sz.110を作曲し、1940年に此れを編曲して《2臺のピアノと打樂器の為の協奏曲》Sz.115としています。

 

  今日紹介させて頂くのは、上述の《管弦樂の為の組曲第2番》作品4をピアノ獨奏の為に編曲したものを、更に《2臺のピアノの為の組曲》へと編曲した作品です。

 

  樂曲の構成は以下の通りです:

 

  1.セレナータ Serenata

  2.惡魔的アレグロ Allegrro diabolico

  3.平原の風景   Scena della Puszta

  4.終わりに   Per finire

 

  演奏メンバーは以下の通りです:

 

  Ditta Pásztory & Erzsébet Tusa (Klavier) 

 

      ディッタ・バーストリは、1903年にオーストリア=ハンガリー帝國のリマソムバトに生まれた、ハンガリーのピアニストで作曲家のベラ・バルトークの2番目の妻で、《戸外にて》やピアノ協奏曲第3番等と謂った多數の作品の獻呈を受けています。

  兩親がピアノ教師、高校教師であった彼女は、ブダペスト音樂院でピアノを學び、1921年に學位を取得すると、更なる研鑽の為、1922年にハンガリー王立音樂院に入學し、其處でバルトークの個人指導を受ける樣になります。

  1923年6月にマールタ・ツィーグレルと離婚したバルトークは、自身よりかなり年下の女性に魅かれる傾向が明確に有り、1909年に28歳でマールタと結婚した際、彼女は僅か16歳だったと云います。

  ディッタは獨奏者としてのキャリアを捨てはしたものの、夫のピアノ・デュオのパートナーと成り、1938年1月16日にはスイスのバーゼルで行われた國際現代音樂協會の創立紀念コンサートで、打楽器奏者のフリッツ・シーサー、フィリップ・リューリヒ、そして夫である作曲者自身と共に2臺のピアノと打樂器の為のソナタの初演を行っています 。更に2人はヨーロッパ中でピアノ・デュオコンサートを行い、そして1940年に《ミクロコスモス》から7曲を拔粹して2臺のピアノ用編曲を行い、自らとディッタが演奏するレパートリーに加えられる樣にもしています。同年、夫妻はナチスから逃れるべく、アメリカへと移住しています。

  バルトークを擁護した數少ない人物の一人で、彼と同郷のフリッツ・ライナーの援助と指揮に由り、バルトークとディッタは1943年1月31日にカーネギー・ホールに於いてニューヨーク・フィルとの共演で《2臺のピアノと打樂器の為のソナタ』の管弦樂編曲版である《2臺のピアノの為の協奏曲》を初演し、此れがバルトークの最後の公開演奏と成りました。

  バルトークの死後、ディッタは1946年にブダペストへ戻って生涯をその地で暮らし、亡き夫の記憶を普及させる事に身を捧げます。そして、バルトークの作品に由る演奏會を催し、屡エルジーベト・トゥーシャと共演すると共に、《ミクロコスモス》からも一部の曲を録音しています。

  バルトークの死から37年後、ディッタは1982年に79歳でブダペストで生涯を終えます。前年に夫の生誕100周年を祝ったばかりでした。バルトークの亡骸がアメリカからハンガリーへと移されて以降、彼女はブダペストで夫と並んで眠りについています。

  エルジーベト・トゥーシャは、1928年にブダペストで生まれたハンガリーのピアニストで、1967年から國立フィルハーモニー管弦樂團のソリストを務め、複數の大陸の多くの國でコンサートを開催しています。又、幾つかの録音も殘していて、ディッタ・パーストリとの2臺のピアノの為の作品も其の中の一つです。