アノーソフのプロコフィエフ《ロメオとジュリエット》第1組曲

 

Sergei Sergejewitsch Prokofjew

Сергей Сергеевич Прокофьев

«Ромео и Джульетта»

Roméo et Juliette

"Romeo und Julia” Op.64bis

 

 

 

  今日採り上げるのは、プロコフィエフの《ロメオとジュリエット》第1組曲 作品64bisです。

 

  《ロメオとジュリエット》は、ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフがイギリスの劇作家シェイクスピアの悲劇《ロメオとジュリエット》に基づき作曲したバレエ音樂で、同バレエ音樂からプロコフィエフ自らに由って3つの管弦樂組曲及びピアノ獨奏の為の組曲が編まれています。

 

  演出家であり、亦たシェイクスピア學者でもあるラドロフ、ギリシャ劇の権威である劇作家のA・ピオトロフスキー、振附家ラヴロフスキー等の協力を得て臺本を作成し、1935年に52曲からなる全曲を完成させたものの、其の時の筋立ては、終幕でロメオが1分早く驅け着け、ジュリエットが生きている事に気附いてハッピーエンド、と謂う内容に成っていました。ハッピーエンドにした理由は、バレエの振附の為に、生きている人は踊る事が出來が、死者は踊れないと謂う理由であった事をプロコフィエフは自傳の中で述べています。其の後、振附家達と相談し、悲劇的な結末を踊りで表現し得る事が判明し、原作通りの結末にして終曲を書き改めたと云います。

  バレエは當初、レーニングラード・バレエ學校創立200年祭で上演される預定であったのが、酷評されて契約を撤回されてしまいます。其處でプロコフィエフは組曲を2つ作り、バレエの初演に先行して第1組曲を1936年にモスクワで、第2組曲を1937年にレーニングラードで發表します。バレエは爾後、1938年12月30日にチェコスロヴァキアの國立ブルノ劇場に於いて、セムベロヴァの主演、プソタの振附に由り初演が為されています。

 

  さて、上述の演奏會用組曲(管弦樂)ですが、プロコフィエフが編んだ組曲が其の儘演奏される事は少なく、主に第1組曲と第2組曲から數曲を拔粹して演奏すると謂う形が多い樣です。

 

  其れ等3つの組曲の内容は以下の通りです:

 

  《ロメオとジュリエット》第1組曲 作品64bis

  1936年11月24日、モスクワのボリショイ劇場に於いて、セバスチャンの指揮に由り初演が行われています。 

  1. 民衆の踊り
  2. 情景
  3. マドリガル
  4. メヌエット
  5. 假面
  6. ロメオとジュリエット
  7. ティボルトの死

  《ロメオとジュリエット》第2組曲 作品64ter

  1937年4月15日、レーニングラードに於いて作曲者自らの指揮に由り初演が為され、現在に於いては此の第2組曲が最も多くコンサートで演奏されている樣です。

  1. モンターギュー家とキャピュレット家
  2. 少女ジュリエット
  3. 僧ローレンス
  4. 踊り
  5. 別れの前のロメオとジュリエット
  6. 百合の花を手にした娘達の踊り
  7. ジュリエットの墓の前のロメオ

 

  《ロメオとジュリエット》第3組曲 作品101

  1946年3月8日、モスクワに於いて、デクチャレンコの指揮に由り初演が行われています。 

  1. 噴水の前のロメオ
  2. 朝の踊り
  3. ジュリエット
  4. 乳母
  5. 朝の歌
  6. ジュリエットの死

  ※ 上述の3つの管弦樂用組曲以外に、ピアノ組曲バレエ『ロメオとジュリエット』からの10の小品 作品75が編まれ、1937年にモスクワに於いて作曲者自らに由って初演が為されていますが、詳しくは後日別個紹介させて頂く預定です。

 

  今日紹介させて頂くのは第1組曲で、ニコライ・アノーソフの指揮するソヴィエト國立交響樂團に由り1953年に行われたセッション録音です。

 

  ニコライ・アノーソフは、1900年にボリソグレブスクの銀行家の家庭に生まれた舊蘇聯邦の指揮者で、家庭で音樂教育を受けたものの、地元の高校を卒業後はペトロフスキー・ラズモフスカヤ農業大學に進學し、程無く赤軍に參加します。クロンシュタットの叛亂の際には砲兵の士官として赤軍の戰闘に加わり、其の後は外務省に勤務しました。

  1920年代中半ばからスタニスラフスキーのオペラ・スタジオでピアノ伴奏を務めた事を切っ掛けに、音樂活動を行う樣に成り、1928年にはモスクワ・フィルハーモニー協會に名を連ね、アンドレイ・ムトルとアナトリー・アレクサンドロフに音樂理論と作曲を教わります。そして、1930年にはラジオ放送でグルックの歌劇《オルフェオとエヴリディーチェ》を指揮してデビューを飾り、1933年にはハチャトゥリアンの舞蹈曲をモスクワで初演して名を上げます。又、1937年にはロストフ交響樂團の首席指揮者と成り、翌年にはバクー音樂院の講師に招かれる傍ら、アゼルバイジャン・フィルハーモニー交響樂團の首席指揮者を務めています。

  1943年ににモスクワ音樂院で作曲の學位を取得し、其の翌年にモスクワ音樂院の講師と成ると共に、1945年から1950年迄レフ・シテインベルクの創設したモスクワ國立交響樂團の首席指揮者を務め、1947年からはモスクワ音樂院のオペラ科の指導も任される樣に成り、1951年には教授に昇格し、蘇聯の名譽藝術家の稱號を送られています。1962年12月2日にモスクワにて歿しています。

  因みに、彼の息子が即ちゲンナジ―・ロジェストヴェンスキーです。

 

  上述の通り、一般には第1組曲と第2組曲から拔粹する形で演奏が為される事が多く、第1組曲を型通りに演奏した者は稀な樣で、而もアノーソフの殘した貴重な録音という事で、紹介させて頂いた次第です。

 

  

  演奏メンバーは以下の通りです:

 

  Nikolai Anosow (Dirigent)

    Großes Radio-Sinfonieorchester der UdSSR

 

(1953)

 

 

(1953)