オーマンディのルーセル  《バッカスとアリアーヌ》Nr.2

 

Albert Roussel

Bacchus et Ariane》Op.43 Suite Nr.2

 

 

  今日採り上げるのは、ルーセルの《バッカスとアリアーヌ》第2組曲です。

 

  

  《バッカスとアリアーヌ》は、アルベール・ルーセルがオペラ座の支配人であるジャック・ルーシェの依頼に由って1930年6月から10月に掛けて作曲したバレエ音樂及び其れに基づいたバレエ組曲で、日本語では《バキュスとアリアーヌ》と標記される事も有ります。

 

  作家のアベル・エルマンがギリシャ神話の『テセウス英雄傳』の中からミノタウロス退治の後日譚であるバッカスとアリアーヌの物語をバレエ用の臺本として書いたもので、「ナクソス島のアリアーヌの神話に着想を得た數多くの音樂作品の中で恐らくリヒャルト・シュトラウスのオペラと共に最も有名なこの《バッカスとアリアーヌ》は長く曲がくねったメロディー曲線や荒々しいと同時に洗練され、度々多調的となる和聲、強烈なリズムと謂ったルーセルの成熟期の美點の全てを結集している」。「ルーセルの音樂創造は其の出發點に生命感に溢れたリズムが有り、此のリズムの躍動からメロディーが生み出され、更に此の樣にして生み出されたメロディの對位法的絡み合いの中からハーモニーが生じるのである」等と謂った評價が為されています。

 

  初演は、1931年5月22日にオペラ座(ガルニエ宮)に於いて、フィリップ・ゴーベールの指揮、セルジュ・リファールの振附けに由り行われ、バッカスの役はリファール自らが踊り、舞臺美術はジョルジュ・デ・キリコが擔當したと云います。

  尚、『ラルース世界音樂事典』に於いては「此の作品の舞臺公演は長期間は續かなかった。惟、音樂だけはあらゆる聽衆を熱狂させ、軈て2つのオーケストラ組曲の形で演奏會に於いて名譽を恢復した。だが、第2組曲が世界的に有名となり、あらゆるフランス音樂の中でも最も良く演奏される曲目の中に數えられるのに對して、第1組曲は恐らく〈靜かに〉終わる為か實に不當にも無視され續けている」と解説されています。

 

  組曲の構成は以下の通りです:

 

  第1幕(第1組曲)

  • 前奏曲
  • 迷宮の踊り
  第2幕(第2組曲)
  • バッカスはアリアーヌと夢の踊りを再び踊る
  • バッカスの踊り
  • アリアーヌの踊り
  • アリアーヌとバッカスの踊り
  • バッカナール‐アリアーヌの戴冠

 

  今日紹介させて頂くのは第2組曲で、ユージン・オーマンディの指揮するバイエルン放送交響樂團に由り1959年6月に行われた演奏會に於けるライヴ録音です。

 

  ユージン・オーマンディ(オルマーンディ・イェネー)(Ormándy Jenő)は、1899年にブダペストのユダヤ人の血を引く家庭に生まれたハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人指揮者で、本名はブラウ・イェネー(Blau Jenő)と謂います。

  1905年にブダペスト王立音樂院に入學し、1908年から名ヴァイオリニストのイェネー・フバイ(ヨーゼフ・ヨアヒムの高弟)に師事します。そして1917年にヴァイオリン教授の資格を得て音樂院を卒業後、ヴァイオリニストとして本格的な演奏活動を開始し、1919年には師の後任として王立音樂院ヴァイオリン科主任教授に就任します。併し、1921年にアメリカを演奏旅行した際、一説ではマネージャーに騙されたとも云われ、無一文で見知らぬ土地に放り出される苦難に見舞われます。

  糧を得るために1921年、ニューヨーク・キャピトル劇場オーケストラのヴァイオリン奏者と成り、腕を買われて同年中にコンツェルト・マイステルに就任し、1923年から數年間に亙ってヴァイオリニストとして幾らかの獨奏録音を行なっています。

  1924年9月、指揮者が急病で倒れてしまい、代役としてキャピトル劇場オーケストラを指揮する事と成って指揮者デビューを果たし、爾後、指揮者に轉向して26年にキャピトル劇場準指揮者と成り、27年にはアメリカ國籍を取得します。

  1931年、病氣のトスカニーニの代役として、フィラデルフィア管弦樂團定期公演を指揮s、此の代演を成功させて評判を高め、同年、ミネアポリス交響楽団(現・ミネソタ管弦樂團)の常任指揮者に就任します。そして、1936年、ストコフスキーと共にフィラデルフィア管弦樂團の共同指揮者と成ります。

  1938年、ストコフスキーの辭任に由り後任としてフィラデルフィア管弦樂團音樂監督に就任し、無一文で放り出されたアメリカで有名指揮者と成ると謂うアメリカンドリームを摑む事と成りました。爾後、音樂監督として1980年に勇退する迄42年の長き亙って在任しています。

  オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦樂團の、弦を中心に磨き拔かれた其の音色は、「フィラデルフィア・サウンド」、「オーマンディ・トーン」として名を馳せ、就中後期ロマン派音樂の演奏に大いなる力を発揮しました(オーマンディ自身は「フィラデルフィア・サウンド」と呼ばれる事に不快感を示し、「オーマンディ・トーン」と呼んでくれるように求めていたそうです)。

  惟、小生としては、其のクロム鍍金を想わせるメタリックな響きが苦手な上に、エンターテインメント的な演奏ぶりに辟易していて、餘り顧る事が無かったというのが正直な所です。

  所が、此のバイエルン放送響やベルリン放送響、其れにウィーン・フィルに客演した際の録音に觸れる事で、此の指揮者の持つ實力の凄さに驚嘆させられ今日に至っています。そういう意味において、目から鱗と謂うか、彼は矢張り本物であったのです。故に、歐洲とりわけ獨墺系のオケを指揮した演奏の音源をもっともっと發掘し且つ紹介して欲しいというのが本音です。

  此の曲に在っては、オーマンディに由る鮮やかな音樂創りとバイエルン放送響の高い合奏力とが融合された開演が展開されていて、音樂が隨所で咆哮しているのが鮮烈と謂うより外有りません。又、コンツェルト・マイステルのルドルフ・ケッケルトの奏でるヴァイオリンのソロが此れ亦た見事で、曲の持つ魅力をより一層引き立たせてくれています。

 

  演奏メンバーは以下の通りです:

 

  Eugene Ormandy (Dirigent)

    Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks

 

(1959.06 Live-Aufnahme)

(1959.06 Live-Aufnahme)

 

  ※ジャケットにはSuite Nr.1と記されていますが、曲は第2組曲です。