フルトヴェングラーのバッハ《管弦樂組曲》Nr.3

 

Johann Sebastian Bach

Orchestersuite Nr.3 D-Dur BWV 1068

 

 

 

  今日採り上げるのは、バッハの《管弦樂組曲》第3番 ニ長調 BWV1068です。

 

 

  第3番の樂曲構成は以下の通りです:

 

  1.序曲 (Ouvertüre) 4/4 - 2/2 

  2.エール (Air) 4/4

  3.ガヴォット (Gavotte) 2/2

  4.ブーレ (Bourrée) 2/2

  5.ジーグ (Gigue) 6/8 

 

 

  今日紹介させて頂くのは、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦樂團に由り1948年10月に行われた演奏會のライヴ録音です。

 

  如何にもフルヴェンらしい風格と偉大さを感じさせるテンポの極めて遲い重厚な演奏で、就中第2曲「エール」の大きなルバートの有る濃厚で深い表現が印象的で、一旦聽き始めるや否や、思わず引き込まれてしまい、少しでも此の時間の中に身を任せたい思いに驅られてしまいます。

  バッハ音樂の演奏スタイルは、ピリオド樂器、モダン樂器、19世紀からの傳統的な演奏という三者に大別出來ましょう。其の三つ目の19世紀からの傳統的演奏に於いて、クレンペラーやシューリヒトの演奏は古いスタイルではありながらも、古臭さを感じさせる者でないのに比べて、此のフルトヴェングラーの演奏は如何にも古色蒼然たる者と云われても仕方無いでありましょう。

  確かに、「こんな演奏はバッハじゃない!」と云われてしまえば其れ迄なのですが、此の演奏からは、バロック音樂或いは古典音樂の時代掛かった再生に秘められた20世紀的莊嚴さ、即ち單なる「浪漫」を追うのではなく、思いの丈情感を込め、音樂に没入する様がリアルに傳わって來て、視點を變えれば、逆に新鮮ささえ感じられるのです。

  假に若し、バッハが當世に生きていたならば、「私の音樂が斯くも素晴らしく感動的なものであったとは?!」と驚嘆するに相違無いでありましょう。

  近年流行りの古樂器スタイルの演奏は兎にも角にもあっさりとしているものばかりで、バッハの生きていた當時は確かに其の樣なスタイルで演奏していたのかも知れないのですが、此のフルヴェンの時代に囚われず、學究的ではなく、己の信念に基づく儘に為している所の演奏に觸れてしまった曉には、其れ等が如何に味氣ない者に感じられてしまうのは果たして小生だけなのでしょうか?

  フルトヴェングラーは、1950年代の初めに、ベルリン音樂大學の學生達に此の樣に語っています:

  「感情を表現する音樂が19世紀の産物だと考えてはいけません。バロック期にも、少なくても理論の上では、音樂に感情的な要素は存在しており、惟19世紀に入って其れが際立っただけです。其の點に於いて音樂は常に同じだと私は考えます。音樂は人間性の表現である事に變わり有りません。生きている人間、二つの目と二つの耳、一つの口を持つ人間が其の背後に存在しているのです。過去も、そして今も。」

  又、「何故バッハとベートーヴェンを同じ精神で演奏するのか?」と尋ねれられて怒り出した事があったそうで、其の時、彼は次の樣に答えたと云います:

  「何一つ變わる事が無いからだ。人間の心は不變だ。何方の作曲家も目指す所ろは一つ、其れは古代の悲劇と同じで、謎めいた力を解放し、自然の本能を舒化する事だ。」

  何と意味深長な言葉でありましょうか。    

  

  因みに、フルトヴェングラーは此の《管弦樂組曲》第3番を1948年10月の22日と其の2日後の24日の2回に亙って演奏していて、雰圍氣の違いこそ無いものの、「G線上のアリア」として有名な第2曲のエールで、22日は最初の反復しか為していないのに、24日は全て反復しているが故に、演奏時間に2分程の隔たりが生じています。

  又、1929年に「エール」の樂章のみの録音を殘していて、48年の演奏よりも更に崇高さを感じさせる者であるが故に、序で乍ら茲に敢えて添附させて頂いた次第です。

 

  

  演奏メンバーは以下の通りです:

 

  Wilhelm Furtwängler (Dirigent)

  Berliner Philharmonisches Orchester

 

(1948.10.22 Gemeindehaus)

 

(1948.10.24 Live-Aufnahme Titania-Palast)

 

(1929)