ルージチコヴァーのバッハ  《イギリス組曲》Nr.5

 

Johann Sebastian Bach

Englische Suite Nr.5 e-moll BWV810

 

 

  

  今日採り上げるのは、バッハの《イギリス組曲》第5番 ホ短調 BWV 810です。

 

  バッハは生前、此の一連の作品を《イギリス組曲》とは呼ばず、單に素っ氣なく「プレリュード附きの組曲」と稱していたそうで、此の言葉通り、1曲目に長いプレリュードが置かれているのが6曲全てに共通するものですが、此の5番の其れは全體の小節數が156小節という最も長い者で、而も冒頭2小節とエンディング部分の155~156小節間を除く以外は全ての小節が略16分音符で埋め盡くされているのが特徴です。其れ故に音樂が淡々と亦た延々と進みがちに成り、聽き手に退屈さを感じさせてしまいかねず、其れを防ぐ樣な演奏を展開するのはかなりの技が必要とされると云います。

  

  樂曲の構成は以下の通りと為っています:

 

1. プレリュード (Prélude)
2. アルマンド (Allemande)
3. クーラント (Courante)
4. サラバンド (Sarabande)
5. ロンド―によるパスピエI(Passpied I en Rondeau)
6. パスピエII(Passpied II)
7. ジーグ (Gigue)

 

  そして、もう一つの特徴が、5曲目と6曲目にパスピエという古典舞曲が用いられている事です。17世紀から18世紀の古典舞曲であるパスピエは、ブルターニュに起源を發し、17世紀にパリで大流行したと云われていますが、「パスピエ」という語は、passa-piedないしはpasse-piedが語源で、「通行する足」という意味が有り、此の舞曲に特徴的な輕やかなステップを言い表すものであったそうです。古い時代は、8分の3拍子ないしは8分の6拍子の速い旋舞で、性格的にジーグやカナリーに近かったと云います。因みにドビュッシーの『ベルガマスク組曲』の終曲である「パスピエ」は、行進曲調の踏み踊りとして作曲されています。

 

  今日紹介させて頂くのは、ズザナ・ルージチコヴァーのチェンバロに由る演奏のセッション録音です。

 

  チェンバロのファーストレディーとも呼ばれたルージチコヴァーは、1927年にプルゼニに生まれたチェコの有名なチェンバロ奏者で、1941年から1945年迄ナチス・ドイツの強制收容所に送致された後、プルゼニとプラハの音樂學校に學び、1951年よりプラハ音樂院の教壇に立ち、1990年由り教授を務める傍ら、1978年から1982年迄ブラチスラヴァ音樂院に於いても教鞭を執っていたそうです。

  因みに、彼女はとても小さな手をしていて、其れは收容所生活に於ける營養不足に由るもので、其れ故にピアノを諦めてチェンバロを選んだのだそうです。

  1956年の西ドイツ放送局主催のチェンバロ國際コンクールで優勝し、1964年にはライプツィヒに於けるヨハン・セバスティアン・バッハ國際コンクールの審査員と成っています。

  チェンバロを一つの獨立したコンサート樂器として認知させる事に盡力し、其の草分け的存在となった彼女は、ランドフスカの後を引き繼ぐ形で、モダン・チェンバロのみならず、歷史的チェンバロに由る演奏も積極的に行っています。

  又、演奏家としては、バッハのチェンバロ作品の全曲録音という偉業を成し遂げていて、其れ等も含めて65枚のアルバムを發表している外、バロック音樂以外のプーランクやマルティーヌに由るチェンバロの為の近代音樂の解釋に於いても名を馳せています。

  チェンバロに由るバッハ演奏に在っては、ヴァルヒャやレオンハルトが優れた業績を殘していますが、前者が荘嚴で、後者が学究的であると謂った嚴格な類の演奏であるとすれば、ルージイチコヴァ―のバッハはより明るく柔軟な感じがし、特に組曲の中の舞曲等は彈む樣な輕快さがとても魅力的に感じられるのは、苛酷な收容所生活を乗り越えると謂う經驗の為せる技でもあると云えるのではないでしょうか。

  

  尚、今回も前回と同樣に、グレン・グールドのピアノに由る演奏を添附させて頂いております。 

 

  演奏メンバーは以下の通りです:

 

  Zuzana Růžičková (Cembalo)

 

(1969-1974)?

 

 

      Glenn Gould (Klavier)

 

(1975.05.23-24)