カラヤンのヴェルディ   《假面舞蹈會》

 

Giuseppe Verdi

《Un ballo in maschera》

Vorspiel zum 1.Aufzug aus "Ein Maskenball"

 

 

 

  今日採り上げるのは、ヴェルディの歌劇《假面舞蹈會》の第1幕への前奏曲です。

 

  《假面舞蹈會》は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1859年2月17日に初演が行われた全3幕から成るオペラです。

 

  此れは《シモン・ボッカネグラ》(1857年3月初演)の次作としてヴェルディが作曲した作品です。1856年にナポリのサンカルロ劇場から、翌57年に上演する新作歌劇の作曲依頼を受けたヴェルディは、《シモン》初演後にナポリへの新作に取り掛かります。此の時ヴェルディは、其れ迄10年以上構想を温め續けていたシェイクスピアンの『リア王』のオペラ化を計劃したのですが、サン・カルロ劇場がヴェルディが望む歌手達と契約しなかった事で『リア王』オペラ化計劃は頓挫してしまいます。其處で新たな題材を探す事になり、ヴェルディが選んだのがスクリーブの戯曲だったのです。此の戲曲は、スウェーデンの啓蒙專制君主グスタフ3世が1792年に假面舞蹈會の壇上で暗殺(スウェーデン語版)された事件を題材に、王と暗殺者アンカーストレム伯爵の妻との架空の戀を絡ませた者で、スクリーブがコンビを組んでいた作曲家オーベールの歌劇のために執筆し、オーベールが作曲した「ギュスターヴ3世」は、1833年にパリ・オペラ座で初演が為されて成功を收めていました。其處で、ヴェルディは『リア王』の臺本を依頼していたアントニオ・ソンマに、スクリーブの臺本の再構成・潤色を行なった上での上演用臺本作成を依頼します。ソンマは要請に從って作業を開始し、ヴェルディはソンマの台本に通常通り細かく目を通し、再三に亙って推敲を求めつつ、臺本作成と並行して作曲に取り掛かりました。劇場側は1857年11月に臺本の粗筋をナポリ當局に提出したものの、檢閲の結果、當局は暗殺事件を為るだけ想起させない内容に變更するよう要求して來たのでした。ヴェルディは劇場側やソンマたちと對策を打ち合わせて多少の變更も折り込みつつ作曲を繼續し、11月中に臺本が完成、同年暮れには略全曲の作曲も完成します。

  當時はイタリア統一運動(リソルジメント)が激化していた時期で、フランスの影響が強く、檢閲の嚴しいナポリで國王暗殺事件を扱う作品の上演は上記のように簡單では有りませんでした。ヴェルディは書き上げた總譜を攜え、戀人ジュゼッピーナ(既に長年同棲している内縁の妻)を伴って1858年1月からナポリに滯在し、劇場側は題名を『ドミノの復讐』とし、ヴェルディとの打ち合わせ通り内容にも多少變更を加えてナポリ檢閲當局と交渉したものの、折惡しく1858年1月にイタリアの民族主義者フェリーチェ・オルシーニが、フランス皇帝ナポレオン3世暗殺未遂事件を起こした事等から、檢閲當局は支配者の暗殺場面の上演など許可出來ないと態度を硬化させ、支配者が死ぬ設定や舞當會の場面の削除など、更に内容の大幅な改訂を要求します。劇場側は對應策として、ソンマとは別の脚本家に密かに依頼して新しい臺本を書いて貰い、其の臺本を上演用にとヴェルディに提示したと云います。ヴェルディは當局の要求に就いて、臺本のみならず最早音樂の根幹にも關わる要求だとして劇場側の提案も即座に拒否すると、上演の可能性を更に探りたいサン・カルロ劇場は契約不履行だとしてヴェルディを告訴し、彼に賠償金を要求する事態と成ります。ヴェルディも即座に劇場側を告訴して應戰の構えを見せますが、結局ヴェルディが1858年秋の同劇場での上演作を「シモン・ボッカネグラ」に切り替えるという代案を出す事で雙方が告訴を取り下げ、事態は一應收束し、非建設的な泥沼化は避けられたのでした。新作上演は結局一旦斷念せざるを得ず、ヴェルディは1858年4月末にナポリを去る事に成ります。

  ヴェルディ最新作の上演計劃がナポリで頓挫したとの知らせはすぐイタリア中に広まり、ミラノ、ローマなど諸都市の一流劇場から新作の上演希望がヴェルディのもとに寄せられます。ヴェルディ自身も勿論心血を注いだ仕事を「お藏入り」にする積りはなく、幾つもの候補の中からヴェルディはローマのアポロ劇場と上演契約を締結します。同劇場支配人ヤコヴァッチから、當時ローマ法王の直轄地であったローマでは檢閲が比較的寛容で、ヴェルディの望む形態での上演を實現し易い事を熱心に説かれた事や、以前同劇場で『イル・トロヴァトーレ』を初演した經驗が有った事、亦たローマでスクリーブ作「ギュスターヴ3世」が歌劇ではないが演劇作品として上演されていた事等が劇場選定の決め手になったと云われています。ローマでの交渉の結果、物語の内容は略其の儘で、作品の舞臺を歐洲以外の場所とする事を條件に上演許可が得られます。ヴェルディは舞臺をイギリス殖民地時代のアメリカに移すことを提案して譲歩し、主人公グスタフ3世はボストン總督リッカルド、暗殺者アンカーストレム伯爵は總督の秘書レナートに、國王に反對する貴族ホーン伯爵とリッビング伯爵を夫々トムとサムエルとして名前が改められました。そして、リッカルドの殺害に使われた兇器をピストルから短劍に變える等の修正が行なわれ、題名も『假面舞蹈會』に決定する事で、ヴェルディに由る音樂には全く變更を加える事無く、漸く初演を迎える事となったのでした。

  20世紀以降は、1935年のデンマーク・コペンハーゲン王立歌劇場での上演を皮切りに、舞臺をスウェーデンに戻した改訂前のオリジナル版での上演も増えて來ている樣です。

 

  物語の簡單な粗筋は以下の樣な者です:

 

  リッカルドはアメーリア(腹心レナートの妻)と「禁斷の戀」に陷ってしまい、其れに氣づいたレナートは激昂します。

  リッカルドは「レナート夫妻をイギリスに返して、アメーリアから身を引く」事を決心します。

  併し、其の意思が傳わる前に、假面舞蹈會でレナートがリッカルドを刺し殺してしまい、其の悲しみの中でオペラはエンディングを迎えます。

 

  今日紹介させて頂くのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦樂團に由り1989年に行われたセッション録音です。

 

  此れは、オペラの分野に於いても數數の實績を殘したカラヤンにとっての最後と成ったオペラ録音で、此の年のザルツブルク音樂祭での上演を預定していて、其のリハーサルをも兼ねて録音されたものです。所が、カラヤンは體調不良故に上演を斷念し、結局は此の録音のみが殘される形と成ったのでした。

  上述の通り、カラヤン最晩年の演奏であるだけに、ゆったりとしたテンポ設定が集中力の衰えを聯想させるのですが、假にテンポを速く採っていたならば、響きが混濁してしまい、混亂した演奏に成っていたであろう事も想像に難く有りません。斯うした事からも、ウィーンフィルというオケの音色の美しさを響きの豊かさを大切にした、而もカラヤン美學なるものを存分に體現させた名演奏であると云えるのかも知れません。

  

  演奏メンバーは以下の通りです:

 

  Herbert von Karajan (Dirigent)

    Wiener Philharmoniker

 

(1989.01.27-02.03)