プフィッツナーの自作自演《ハイルブロンのケートヒェン》
Hans Erich Pfitzner
Ouvertüre zu "Kätchen von Heilbronn" Op.17
今日採り上げるのは、プフィッツナーの《ハイルブロンのケートヒェン》の序曲です。
《ハイルブロンのケートヒェン》はハンス・プフィッツナーが1905年に作曲したハインリヒ・フォン・クライスト作『ハイルブロンの少女ケート』の劇附隨音樂で、1905年10月19日にベルリン・ドイツ劇場において序曲のみが初演されています。
物語の舞臺と成っているのは14、15世紀のドイツで、粗筋は以下の通りです:
ハイルブロンの武具鍛冶師テオバルト・フリーデボルンが、秘密裁判(死罪に値する罪を審議する裁判)に於いて、騎士ストラール伯爵を我が娘であるケートヒェンに魔法を掛けてかどわかしたという罪で起訴します。
ケートヒェン(カタリーナの愛稱)は、誰もが憧れる美人で心根の優しい乙女であったのが、シュトラール伯爵に會った途端、彼を追って窗から跳び降り、何日も寝込んだ後、伯爵の後を追い、伯爵の老僕のゴットシャルクの監督の下、伯爵の身の周りの世話をしていました。
結局、二人の間には何事も無かったが為に閉廷となり、伯爵はケーtヒェンに二度と來るなと言い渡します。
其の後、彼はケートヒェンに戀をしているにも關わらず、身分が違うが故に諦めざるを得ないと洞窟の奥で涙します。
其處へクニグンデ・フォン・トゥルネック孃等が戦争を仕掛けて來たので、伯爵は出擊するのですが、旅の途中で城守官フライブルクに攫われたクニグンデを救出する事に成ります。
伯爵は、皇帝の曾孫であるクニグンデを夢で遇った未来の妻と思い込み、彼女と婚約してしまいます。
一方、ケートヒェンは伯爵の身に迫る危機を知り、伯爵の元へと一人で赴きます。
其の後も度重なる生命の危険を乗り越えたケートヒェンの働きで、伯爵は危機を脱します。
何時もの樣に城の外のニワトコの木の下で夢現の状態にある彼女との會話で、伯爵は彼女こそが夢で出逢った未来の妻であると悟ります。
怒ったテオバルトは皇帝をじきじきに城に呼び出し、一悶着の後、伯爵はケートヒェンと結婚します。
今日紹介させて頂くのは、ハンス・プフィッツナーの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦樂團に由り1945年に行われた自作自演のセッション録音です。
プフィッツナーは、屡最後のロマン主義者の一人に數えられる樣に、時流に抗い保守的な作風で創作を續けました。創作技術という側面から樂曲を分析的に解釋しようとする風潮を毛嫌いし、作曲の根源は靈感(亦は着想)にあると唱えて不可知論的な姿勢を採りました。成熟期のいくつかの作品では、「調性の浮遊」や「不協和音の解放」、「全音音階の活用」等といった、新ウィーン樂派初期の作風に接近した作例も見受けられはするものの、其れを推し進めて調性を完全に破壊する所迄には至らず、20世紀の中半迄、19世紀ロマン派音樂樣式の傳統を守り通しました。就中、シューマンとワーグナーに私淑した樣ですが、幾つかの初期作品に在っては、シューベルトやメンデルスゾーン、ブラームスの影響も見られます。同世代のリヒャルト・シュトラウスやシェーンベルクとは異なり、ジャンルの越境や形式の實驗を試みてはいません。又、歌劇や歌曲、各種の器楽曲を手掛けてはいますが、交響詩には取り組みはしませんでした(但し、其の樣に分類し得る樂曲が無いという意味ではありません)。學生時代からピアニストとしても活躍し得るだけの演奏技術を持っており、いくつかの自作は手ずからピアノを彈いて初演したにもかかわらず、意外な程ピアノ曲が多くは有りません。
プフィッツナー作品の特色は、明晰な形式感、複雜ではありながらも洗練された半音階的和聲、そして先ず何よりも、魅力的な旋律の探究に在ります。其の點に於いてプフィッツナーは第一にリート(歌曲)作家だったのであり、必然的に聲樂曲がプフィッツナーの創作の中心と成っています。多樂章制の器樂曲でも、しばしば緩徐な歌謡樂章が作品全体の白眉と成り、時に他の樂章に比べてアンバランスなほど長大な演奏時間が要求される事も有る樣です。
此の序曲も明晰な形式感が示されたものである上に、旋律が殊の外魅力的です。そして更に、ベートーヴェンの交響曲の録音も殘している通り、指揮者としての腕前も見事で、其れに加えてウィーンフィルという名オケを指揮しての演奏であるからには、惡かろう筈が有りません。録音が稀少であるだけに、曲を知る上でも、亦たプフィッツナーという作曲家の作風や藝風を知る上でも、是非とも聽いておきたい演奏です。
演奏メンバーは以下の通りです:
Hans Pfitzner (Dirigent)
Wiener Philharmoniker
(1945)