フリッチャイのJ. シュトラウス II《蝙蝠》

 

Johann Strauß II 

Ouvertüre zu "Die Fledermaus" 

 

 

 

  今日採り上げるのは、ヨハン・シュトラウス2世の喜歌劇《蝙蝠》の序曲です。

 

  《蝙蝠》は、ヨハン・シュトラウス2世が1874年に作曲し、同年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で初演された全3幕から成るオペレッタです。

 

  此のオペレッタは、ロデリヒ・ベンディックスの喜劇『牢獄』(1851年)に基づき、アンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィが書いた喜劇『夜食』(1872年)を原作としたもので、カール・ハフナーとリヒャルト・ジュネがメイヤックとアレヴィの原作を手直ししたものが臺本と成っています。

 

  數有るウィンナ・オペレッタの中でも最高峰とされる此の作品は、「オペレッタの王樣」とも呼ばれ、ヨハン・シュトラウス2世特有の優雅で輕快なウィンナ・ワルツの旋律が全篇を彩り、其の親しみ易いメロディーは世界中で愛されている樣です。

 

  《蝙蝠》が誕生する切っ掛けと為った人物が二人居て、一人は當時パリで大成功を收め、「シャンゼリゼのモーツァルト」と呼ばれていたジャック・オッフェンバッハで、もう一人はシュトラウスの最初の妻であるイェッティです。

  オッフェンバッハは、1865年に自作の《美しきエレーヌ》をウィーンに持ち込み、大變な成功を收めました。シュトラウスとオッフェンバッハが初めて出逢ったのが丁度其の頃の事で、オッフェンバッハはシュトラウスに「貴方はオペレッタを作曲すべきだ」と言ったと云います。併し、シュトラウスはそうはしなかった樣で、何故かと云うと、ウィーンでは既にフランツ・フォン・ズッペの作品が大成功を收めていて、自らがオペレッタの世界に入る餘地など無いと考えていたからです。

  そんなシュトラウスに轉機が訪れたのは、1869年に成ってからで、前年に圓舞曲《美しく青きドナウ》を發表して大成功を收めていたシュトラウスに對して、劇場の支配人達が、何れシュトラウスが劇作品を發表し出すであろうと考え始めたのです。其の中の一人にアン・デア・ウィーン劇場支配人のマックス・シュタイナーが居て、彼はシュトラウスの妻イェッティ(元女優で、顔の廣い女性でもあった)に夫君にオペレッタの作曲を勸める事を依頼します。此れを引き受けた妻は夫を説得し、最初のオペレッタの臺本《ウィンザーの陽氣な女房達》が渡され、作曲が開始されたのですが、其の主役を誰が演じるかでプリマドンナ2人が激しく爭う事と成り、其れにうんざりしたシュトラウスが怒ってしまった事で、上演が頓挫します。

  併し、シュタイナーは諦めず、次なる臺本『インディゴと40人の盗賊』を渡します。斯くして1871年2月10日にシュトラウスのオペレッタ第1作と成った《インディゴと40人の盗賊》がアン・デア・ウィーンで初演され、或る程度の成功を收めはしたものの、臺本の不備が次第に觀客に露呈された事で、軈て上演打ち切りに追い込まれました。併し。オペレッタで成功を收めたいとの思いを捨て樣とはしなかったシュトラウスは、1873年に第2作《ローマの謝肉祭》を作曲したのですが、此の作品も失敗に終わります。

  翌1874年、《蝙蝠》の原作と成る戲曲《夜食》がシュタイナーの許に届けられ、彼は此の作品をウィーンの聽衆とシュトラウスに合う樣に臺本作家に手直しをさせてからシュトラウスに渡します。其の臺本を一讀して魅了されたシュトラウスは、自宅に籠り、6週間で此の作品を書き上げたと云います。

 

  このオペレッタのタイトルになっている「蝙蝠」とは主人公であるファルケ伯爵の事です。
  ファルケ伯爵は友人のアイゼンシュタインに昔惡戲らされた事への復讐をするため巧妙な罠を仕掛けます。

  <其の1>
  公務員を莫迦にした罪で刑務所に入ることになったアイゼンシュタインに「刑務所に入る前日の夜くらい樂しもう」と或るパーティーに誘います。アイゼンシュタインは妻ロザリンデに嘘をついて出かけます。

  <其の2>
  アイゼンシュタイン家の女中アデーレも其のパーティーに來るように仕向けます。そして、アデーレもロザリンデに嘘をついて出かけます。

  <其の3>
  ロザリンデにも其のパーティーに來るように仕向けます。其の結果、3人は夫々偽名を使い、パーティー會場で鉢合わせになります。

  ファルケ伯爵はアイゼンシュタインがドギマギするのを遠くから見て密かに笑っています。

  パーティーが終わり、アイゼンシュタインが刑務所に行ったところで種明かしとなり、蝙蝠の復讐(ドッキリ)は大成功!と成って幕となります。

 

  今日紹介させて頂くのは、フェレンツ・フリッチャイの指揮するベルリンRIAS放送交響樂團に由り1949年に行われたセッション録音です。

 

  フリッチャイがヨハン・シュトラウスを得意にしていた事は良く知られています。シュトラウスの生きた時代のウィーンはオーストリア=ハンガリー二重帝國の首府で、シュトラウスの音樂にも東方からの影響が顯れています。ハンガリー人のフリッチャイは、シュトラウスの斯うした要素を巧みに引き出す事で、潑溂とした魅力を打ち出しています。就中、リズム感が此れ以上のものは求められないと感じられる程の絶妙さを秘めていて、ニューイヤーコンサートの創始者で、ウィンナ・ワルツの權威とも云うべき名指揮者のクレメンス・クラウスとは一味違った魅力を發散させているのが聽き所です。

 

  演奏メンバーは以下の通りです:

 

  Ferenc Fricsay (Dirigent)  

  RIAS-Symphonie-Orchester Berlin

 

 

(1949.11.01-08&12.23)