唐突に妄想文につき注意
車寄せに飛び込むように横付けしたエアカーの後部座席から足元のおぼつかない藍を引きずり出すように下した三四郎はそのまま後ろ手に拘束し、呆気にとられている職員に硬い口調でカイはどこだと尋ねた。
メインゲートの警備室から連絡を受けていたとはいえ、利き腕をギブスで固定した三四郎の表情は険しく、捉えられている藍の右頬は一目で殴られたのだとわかるほどの赤い痣があり、軽い脳震盪を起こしているのか視線は虚ろで定まらない。軍人の藍がここまでダメージを受けるような諍いは親子喧嘩の範疇を超えている。
官邸付きの職員としてカイの家族を把握している職員は困惑を隠せなかった。
「終身執政官は第一執政官とご一緒に地球政府の特使と会議中です」
独立こそしたものの地球の衛星でもある月は、かつての宗主国である地球政府と友好条約を締結し軍事を含む国家基盤の多くを委託していた。自由奔放で集団帰属意識の希薄な月人が迅速に自力で国家を運営するのは難しい。そのため、ドレイクの傍で政治に携わり純血種であり長命なカイが終身執政官に就くことで長期に渡って内政の安定化を図るとともに、オブザーバーとして連邦と地球が補佐の執政官をそれぞれ一名派遣し三頭体制を採用することにしたのだ。
表向きは 実際にはカイと第一執政官の凱の二頭体制で、第二執政官は一種の名誉職のようなものだった。
そして現在、4年ごとの条約更新を前に改定条項の交渉が始まっている。カイが忙しいと言っていたのは嘘ではない。そして第一執政官である凱は旧宗主国と新独立国家のパワーバランスの軋轢を公平に調整するオブザーバーとして会議に立ち会っている。
そんなカイと凱にとっての重要案件も三四郎にとっては他人事だ、職員の説明で耳に留まったのは会議室にいるということだけだった。
「カイには知らせずにそこに案内しろ」
久しぶりに会う恋人を驚かせようという陽気な悪戯とは程遠い表情に来客を迎えるに相応しい容姿の職員はとんでもないと首を横に振った。
「そっそんなことできません、執政官に叱られてします」
官邸付きの職員とはいえ彼にとっては執政官は車寄せで姿を見かけるだけの雲の上のような存在と言っていい。凄む三四郎よりもカイの叱責を恐れている。
「いいから!あんたには迷惑はかけないからさ」
険しい表情をほんの少し和らげ後ろ手に拘束している藍を押し出す。
「こいつにもとりなしをさせるから、頼むよ」
ふらつく藍に頭を強引に下げさせた三四郎と虚ろな藍を見比べしばらく迷った後、混血種の職員は泣き出しそうな顔で約束ですよと念を押し官邸のドアを開く。
「ロード、世話を掛けたな」
背中越しに助手席から降りかけた車の所有者に声を掛け三四郎は藍を連れて官邸のドアを潜った。
三四郎が官邸に足を踏み入れるのは凱の身代わりを引き受けた時以来だ。
豪華な公邸と直結しているものの政務を仕切る官邸の内装は機能的で廊下の壁には額装された絵画はなく、床も防音目的のカーペットが張られていた。なによりも違うのは廊下の両側に並ぶプレート付きのドアだろう。公邸で使われている重厚な木製ドアではなく金属プレートを挟み込んだ防弾仕様の樹脂製だ。そこを行き来するスーツ姿の職員や訪問者は、一様にくたびれたジャケットをもろ肌脱ぎにし藍を拘束した三四郎に驚愕した後、好奇心を隠そうともせず振り返った。
独立前スキャンダルに事欠かなかった終身執政官が年の違う一卵性双生児の二人と、彼らのうちの兄の息子を愛人にしている噂は連邦中に流布している。元来セックスに対して寛容な月の住人はそれをことさら騒ぎ立てたりはしないが、だからと言って成り行きに興味が全くない訳ではない。父と子のただならぬ様子は彼らの好奇心を駆り立てるには十分すぎた。
控えめながらそれとはっきりとわかる視線を浴びながらオフィススペースを抜けしばらく進むと頑丈な防護扉で守られたセキュリティエリアに着く。12年前と同様、入館チェックのため武装警備員が警備し保安室も設置されている。
「僕のセキュリティ・レベルでご案内できるのはここまでです」
防弾ガラス越しにこちらを窺う保安員に視線を投げ、おずおずと申し出た職員に三四郎は表情を緩め労った。
「無茶言って悪かったな、ここまで案内してくれて助かったよ。こんな成りじゃここまでこれなかった」
公私を厳格に分けるカイは公邸の出入りを認めても官邸までは許可しなかった。要人との会談も少なくないセキュリティエりアではおさらだ。
「終身執政官にお取次ぎをしてみましょうか」
「そうだな……」
ほんの少し首を傾けた三四郎の顔が悪戯っ子のを思わせる笑みを浮かべにたりと唇を吊り上げた。
「三四郎さま……?」
藍を引きずったまま保安室の監視窓をノックした三四郎はそこが開くや否やギプスで固定された手を伸ばすと館内放送のスイッチをオンにした。
「おーい、カイ。旦那さまのお帰りだぞ」
朗らかにそう言い放ち、驚愕に目を見張った職員に軽くウインクをする。とんでもない一斉放送に通りがかった職員たちが振り返った。
「あんた、気付いてるんだろ、帰って来たの。お出迎えなしなんて連れねえなあ、せっかく藍にお仕置きしておいたのに……」
拗ねた口調で絡むとその視線を藍に向けた。
「それともこの程度のお仕置きじゃ……足りないか」
ふざけていた声がすっと冷えた。
「一旦ここでケリをつけておこうぜ、カイ」
そう付け加えスイッチを切る。
「どういうつもりだ……こんなこと……カイは許さない」
ようやく視界を取り戻し同じ声を絞り出した藍の抗議に三四郎が肩を竦めた。
大切な会議をプライベートの問題で中断させたのだ、公私を分けるよう心掛けているカイが怒らないはずがない。
「だろうな、たぶん今頃トサカに来てこっちに向かってるぜ」
朗らかに言ってのけ、子どものような目で封鎖する防弾壁を見守る。
「こんなのでビビッてたらカイのバディなんかやってられねえからな」
そう苦笑と共に自嘲を零した後、気丈にも睨み続ける息子に笑いかけた。
「おまえがカイに惚れたことに腹立てた訳じゃない、問題はそんなことじゃねえんだ」
「三四郎……・・?}
藍の見たことのない翳りが三四郎の口元を歪ませている。
「来るぞ……」
分厚い防護扉の向こうの気配を読んだ三四郎の藍を拘束する手に力が入った。そして二人が見守る中、バイザーを外したまま壮絶なまでに美しい微笑を浮かべ深紅の眼をしたカイが現れた。瞳の色の意味を知らなければどこから見ても喜びに目を輝かせ生還した伴侶を出迎えるパートナーの姿だ。
だが丈の長い執政官の制服のジャケットの裾を翻し数か月ぶりに会う恋人に駆け寄った彼の伸ばされた腕は男を抱き締めるのではなく喉元に向かった。感動的な再会となるはずの恋人同士の抱擁とは程遠い問答無用の攻撃を身軽く躱し、三四郎はギプスで固定された右腕でカイを抱き込んだ。
「そうとう血が上ってるな……ここでかますと藍までとばっちり食らうぞ」
拘束したままの藍を引き寄せた三四郎は赤い瞳のまま口を引き結んだカイに顔を寄せた。
「相変わらずおっかねー奴」
嘆息交じりの声に笑いが混じっている。
「おまえが怒らせ……!」
どこか楽しんでいるようにも見える三四郎に猛然と言い返したカイの声がそこで途切れた。
後ろ手に拘束された藍にその様子を見ることはできない。それでも自分の背後で起きていることは嫌と言うほど伝わった。
枝垂れ落ちる長い髪が視界を遮る中で三四郎が怒り狂う恋人に口づけている。まるで藍に訊かせるような派手なリップ音とくぐもるカイの抗議の声、その声が次第に弱くなり突き放そうともがくカイの腕から力が抜けていくのを脇に当たる彼の肘が伝える。
口の中に絡め捕られた声が鼻に抜け、なまめかしい濡れた音に変わる頃には藍の脇に当たっていた肘は肩まで上がっていた。
強引に唇を奪った男の首を抱き締めようとカイが腕を上げたのだ。
らしくもなく我を忘れ仕事を放置するほどの怒りは呼吸を奪う口付けに薄れようとしている 両手首を掴まれているせいで耳を塞ぐこともできない藍は、身体を撓ませ口付けに応えるカイの体温をなす術なく感じている以外なかった。
こんな形で誰がカイの『一番』なのかを見せつけられるのはたまらなかった。精一杯、頭を背後の二人から遠ざけ顔を背ける藍の腕をカイの強い抱擁に応えようと三四郎がようやく解放した。
視界を取り戻してもまだ思うように足に力の入らない藍がよろめくその傍で、三四郎がカイのしなる背を抱き締めようとした。
と、その三四郎が藍が膝をつくより早くその場に崩れ折れた。床に倒れる男から一歩身を引き見届けたカイの深紅の眼には金属色の火花が散っている。彼は口付けに応えながら三四郎が藍を解放するのを待っていたのだ。
カイは報復を簡単に放棄するような男ではない。
「時と場所を弁えろ」
充血した濡れた唇で吐き捨てカイが次いで藍の傍らに身を屈めた。その目にはもう火花は消え赤味がかった煌めく青へと色を変えつつあった。
「手酷いお仕置きされたな、私の顔がきちんと見えるか」
軽い脳震盪を起こしているのだと判断したのだろう、そのまま尻をついて座り込んだ藍の頬に手を添え顔を上げさせる。
「利き腕が使えないことが幸いした。格闘技の心得がなければ手加減したといえもっと酷いことになっていただろう」
目の動きを確かめるカイの瞳の色はここしばらく見ていない、いつもの優しいそれだった。
「……カイ……」
僕を心配してくれるの、喉に絡む掠れた呼びかけにカイが軽く頷いた。
「ロードがこちらに向かっています、念のため彼に公邸のメディカル・ルームで検査をしてもらいなさい」
そう指示をしたカイは立ち上がると過激な恋人同士の再会の一部始終を見届けた職員に顔を向けた。美貌の混血種の青年は怯えて青ざめている。
「三四郎に無茶を言われたのでしょう、迷惑を掛けました。この男は邪魔にならないよう隅にでも寄せてこのまま転がしておいて構いません。いずれ自力で公邸に戻ります」
情けの一つもかけず冷たく三四郎を一瞥した後、カイは踵を返した。
「会議に戻ります、後を頼みました」
ドレイクの死後、負傷して帰還してくることの多い三四郎の専用ディカル・ルームと化しているそこで精密検査を受けた藍は念のため一晩そこで過ごすことになった。時間がたつにつれ頬は腫れあがりアドレナリンの分泌が収まると痛みが増した。そのせいで食事を取るのもままならず、柔らかく調理されたものを顎で潰すようにして飲み込むのがやっとだった。今は赤い拳の跡も明日には紫がかった痣になっているだろう。
頬を湿布で覆った彼の横たわるベッドの傍らの椅子には、カイではなくロードが学術誌を詠みながら付き添っている。
月にとって重要な会議だと理解していても、ロードが付き添いなのは不満だった。藍の知る限りカイは内線で容体さえ尋ねていない。
このこと以上に気に入らないのは口付けた三四郎に本気で怒ったカイが彼に向けて放った一言だった。
時と場所を弁えろ。
カイは三四郎の口付けを許していた、脳震盪を起こすほど強く藍を殴ったことよりも、無理やり官邸に入り込んだことよりも、大切な会議を中断させたことよりも、弁えずに口付けたことを本気で怒っていた。
あんな風に感情的になったのを見たのは初めてだ……瞳を深紅に染めて冷たい言葉と強い口調で切り付けてもカイはいつも冷静だった。
ベッドに藍が組み伏せた時ですら取り乱さなかった。あの時感情のない人形のように身体を投げ出していたカイが三四郎の傍若無人の口付けには感情をなくさなかった。
本気で怒って本気で憎んでいた 一番に愛されないなら一番に憎まれたい、その願いも叶えられない。
天井に向けて三四郎の翳りのちらつく大人びた微笑そっくりに唇を吊り上げ犬歯を覗かせた藍はぽつりと呟く。
「僕は結局カイの二番にしかなれないんだ……」
宙に溶け込むような小さな独り言にロードが学術誌から顔を上げた。
「……それは違うと思うよ、藍。君はカイの一番で三四郎にとっても多分そうだと思うよ」
老眼鏡を外し藍の険しい横顔を見下ろしたロードはゆったりと膝の上に置いた本の上に指を組む。
「親の愛情と伴侶に向ける愛情に優先順位はないんだよ」
頑として聞き入れそうに藍に向かって続けられるロードの言葉に淀みはない。
「君が本当に危険な時、たぶんカイも三四郎もすべてを投げうって救おうとするよ。同じようにカイと三四郎は互いが危険な時、すべてを賭けて相手を助けようとする……君には何も言わず独りで、ね」
穏やかで深みのある声が親と伴侶と家族を語る。
「君は間違いなくカイの一番だよ、同時に三四郎も一番なんだ、カイにとって一番大切なのは君たち家族だよ」
「だったら……!」
同じ一番だというのならなぜ三四郎だけに本気になるのか、怒りと悲しみで言葉にできない疑問を読み取ったロードが痛まし気に目を瞬かせる。
藍はカイの光の面しか見てきていない、そこに隠れる深い闇を知らない。
「……三四郎も本気でカイのために月に帰って来たんだよ……」
同時刻、ようやく特使らとの晩餐会を終えプライヴェートエリアに帰宅したカイは礼装のまま三四郎の部屋に入った。
滅多に帰ることのない三四郎に私室は不要のように見えるが、寝室と繋がる書斎で執務を執ることもあるカイの私室に三四郎を野放しにはできないという事情があった。加えて今夜のような来賓の滞在中に気ままな男を隔離しておくこともできる。三四郎もよくその点をわかっており、彼はかつて使用人の控えの間として使われていた奥まった部屋をそのまま使用している。主だった居室が豪華なスイートルーム仕様になっている中で、ずいぶんと見劣りのする簡素な作りも気にならないらしく改装すら要求したことはない。
広すぎる邸宅に馴染めなかったドレイクがしたように比較的小さな部屋を時間をかけて居心地よく整えていくこともなかった。その無関心さは彼にとって公邸は今なお『仮住まい』のままなのかもしれないとさえ思わせた。
暖かな陰影を作り出すシャンデリアではなく、無機質な無影灯の下でベッドに寝そべっていた三四郎がカイのブラックタキシードに顔を顰めた。
「うへ……こっちに直行かよ……」
溺愛している藍を殴りつけたのだ、何をおいてもカイは彼のもとに馳せ参じると三四郎は考えていた。
「藍はドクターにお願いした。それにロードもいる」
本職とメディカルコンピューターの操作資格者の名を上げカイは彼はもう子供ではないと付け加えた。
「……ああ凱か……」
歯切れ悪く口の中で男が呟く。ベッドの上で居心地悪そうに身じろぐ彼からほんの少し視線を外した。
藍の能力を評価しているロードから特別講習の申し出があった時、カイは不思議にも思わず好都合だと思った。しかし三四郎の登場で自分たちを引き離すためにロードが動いたのだと知った。とはいえ自分と藍に起きたあの出来ごとを、勘が鋭いとはいえ星の彼方にいる三四郎が手短に終わらせた通信でなぜ気付いたのか見当がつかなかった。
「……なぜ……わかった」
おまえはいつもそうだ 知られたくないとモノを容易く嗅ぎ当て取り出して見せる。昏く沈んだ眼の色を見られたくなくて伏し目がちに尋ねたカイに深いため息が返された。
「バレバレなんだよ。あんたが藍のことを喋り出さないなんて白状してるようなもんだろ」
互いの仕事に興味がなく、口外するのにも制限がある二人にとって藍は差しさわりのない話題の一つだ。なによりも彼に愛情を注ぐカイは信じられないくらい饒舌になった。そして三四郎はそんなカイを見ているのが好きだった。
カイが望んだ形の『家族』とは違うとしても瞳の色と、本来の柔らかな声と、優しい表情を見れば彼が自分のいない場所と時間の中で満たされ幸福であると解るからだ。
「目玉の色以前にバレてたぜ」
半身を起こし軽く肩を竦めた三四郎がベッドヘッドに背を預け自分を見ようとしないカイを見上げる。
「 で、これからどうする?親子ごっこはこれでおしまいか」
「……親子ごっこか……」
色のないカイの唇が引き攣れる。
確かに親子とは言えない関係だった………ドレイクのように態度と眼差しで注ぐ愛情を伝えながらカイは一線を引き、藍もカイを親だとは言わない。その藍は子どもから『オトコ』に成長した。
私も最期までドレイクを『お父さん』とは呼べなかった、それでも彼は過ちを犯した私を『子ども』として愛し続けてくれた……カイは三四郎を見た。
三四郎の真っ直ぐ見上げる視線が、痛いほど藍の気持ちが理解できるカイに藍を『子ども』として接し続けられるか、と問いかけている。その中に非難の気配はない。だからこそカイは責められる以上に辛かった。
「……おまえは月が藍を歪めたとは考えないのか、私は月人だ」
抑揚のない乾いて嗄れた言葉に三四郎の視線が厳しくなった。
「月人を口実に利用するのはよせ、そのことで藍のしたことを許すのもナシだ」
彼は強い口調で吐き捨てた。
「あんたを強姦しようとしたのは藍だ、抵抗しなかったのはあんただ」
「………」
「月人かどうとかなんて関係ない」
三四郎の詰りがカイの本質を突く。
「俺は強姦野郎の言い分を聞いてやる耳は持ってねえし、それの理由がホレたからなんていうのは言い訳にもならない」
きっぱりと自分の息子を断罪し三四郎は険しい視線をそのままカイに向ける。
「それを自分のせいだと考えるあんたはもっと大嫌いだ」
暴漢に対するカイの憎悪を三四郎は見てきている、それは乗り合わせたに過ぎないアーイシャを襲った男達を殺しかけたほどだ。それほど強い憎悪を藍ではなくすべて自分にカイは向けているのだ。
両親に愛され、様々な愛を一身に受けてきたカイは自分の知る愛を藍に与えてきた。だがそのカイは自分を愛せない、自分の愛し方を忘れたまま思い出せない。
カイの愛は欠けている、だから三四郎は月に帰ってきた。ともすれば自分を殺しかねないカイからカイを守るために。
しかしどんな詰りも受ける覚悟でいたカイにとって、起きたことを責めない三四郎の『大嫌いだ』という一言は耐えがたかった。ようやくの思いで向けていた視線が足元に落る。項垂れ長い髪に隠れた目が光沢を失い淀んだ銀色に変わった。
「俺は馬鹿な親をやってるあんたは好きだし、あんたに藍を任せてよかったと本気で思っている」
大嫌いだと言い放った口で三四郎は正反対の言葉を綴る。
「俺はほとんど月にいないからな、その気になったあんたが藍と寝るのを止められない、親子丼っていうのはさすがに引っかかるけどな」
カイが畏れ続けていたインモラルな月の習慣を三四郎は否定しなかった。古風で清潔なモラルの持ち主には受け入れがたい部分があるとしても、月で育った藍のモラルが月人に近くなるのは当然だと考えているのだ。月人の血は流れていなくとも藍は月人なのだ。
「あんたと藍か楽しめて幸せならそれでいい 月はそういう場所だ。それでもあんたにその気がないなら藍がしでかしたことを自分のせいだなんて思わないでちゃんと怒れよ」
自分の愛し方を忘れた月人に、自分大事な男は拙い言葉でその方法を口にする。
「俺にはキスだけでも電撃かます癖に!」
「……」
ゆるゆると上げた顔に埋め込まれた鉛の目が唇を吊り上げ犬歯を剥き出しにした三四郎を捉えた。
「あんた言ったばかりだろう、あいつはもう子供じゃないと」
「………だからおまえと同じようにしろと……ふざけるな」
感情を押し殺した唸り声を絞り出したカイの瞳が深紅に染まった。
「私が望めば藍と寝てもいい? 月がそう言う場所だから?藍と私が幸せなら抱き合うのも構わない?そのくせ私にその気がないのなら怒れ?………おまえの言っていることは矛盾だらけだ。おまえはそれでもいいのかもしれないが私はどうなる……私の気持ちは?」
三四郎を見下ろすカレイドスコープアイズは詰るような言葉とは程遠い純粋な絶望の色をしている。
「おまえは私の気持ちを聞かない……」
膝から力が抜けたようにベッドにへたり込んだカイは顔を三四郎に向けた。
「おまえは自分がいいと思えば私の気持ちを必要としない……」
声にしたことでより深く傷ついたのか、一瞬視線を落としたカイが手を伸ばし固定されていない方の三四郎の手を取った。そしてそのまま節高の指を口元に運ぶ。
「『愛している』と言うならこの口を裂くとおまえは言った。だから、今から裂け」
普段はすっきりと伸ばされてる背が力をなくしカイを一回り小さく見せていた。
「愛し続けてきた男に他の男と寝てもいいと言われるのは耐えられない。おまえを愛しているから愛されていると思いたいのに、おまえはそう思わせてもくれない」
口を裂き易いように人差し指を含もうと開いた唇がぽつりと呟いた。
「そういえばばおまえがプロポーズしたのは私の身体だったな………」
「………え?」
目を見張った三四郎に顔を上げたカイは吹っ切れた微笑みを浮かべた。先ほどまで沈み淀んでいた瞳は吸い込まれそうなほど透明な青を取り戻し眩い光の粒を散りばめている 偽りのないカイの本当の瞳の色、三四郎の姿を追うときに滲む切ない翳りはなく、あるのは彼の高いプライドが作る深みのある艶だ。
「私は三四郎・マキノを愛している。三四郎のいない時間と場所に私の本当の幸せはない」
優しく掠れる本来の声で躊躇いなく言い切りカイは指の腹を頬の内側に向けて含んだ。
飲み込んだまま胸の中でひっそりと繰り返すことしかできなかった言葉をようやく声に出せた彼は、恐れることなく口に含んだ指が唇を頬まで裂くのを待っている。
カイの悔いのない表情を息を飲んで見詰めていた三四郎がやがて深い息を吐くと気まずそうに目を逸らした。
「こんなことを訊くのは申し訳ないんだが、俺……言わなかったけか……愛しているって………」
今度はカイが息を飲む番だった。指を口にしたまま硬直したカイの視線の先で見る間に三四郎の顔が赤らんでいく。
「う……あんな小恥ずかしいことまでしたのに……ヤりたいしか言わなかったのか」
うっすらと額に汗が滲み出した三四郎の心臓が早鐘を打っているのは一目瞭然だった。
「正直に言って『愛してる』のと『惚れている』の違いが俺にはよくわからない。どこまでが『愛している』で、どこからが『惚れている』のか……でもイロイロあっても見捨てられなかったり、勃たねえくせに抱きたかったり、あいつを殺したいくらい憎くんだんだから間違いなくあんたが好きで……そういうのを『愛してる』っていうんだよな」
不安そうにカイの表情を窺って三四郎は口籠る。
「………やっぱ、やり直さなきゃダメ?」
カイは視線を泳がせる三四郎の顔をまじまじと見上げた。
気持ちをセックスで証明しろとカイが迫ったがために目の前に起きていることしか対処できない単純な男から大事なことが抜け落ちたのだ 否、違う。
三四郎の『惚れている』と言う言葉には『愛と恋』が混然一体になっているのだ。三四郎にとって惚れた相手に『愛している』と告白することは欠けた気持ちを伝えることになる。『愛』を聞かされる時の彼が時に鼻白み、時に居た堪れなくなるのは『愛』がすべてではないからだ。
深みのある青い瞳が薄く霞を纏った。微かに色を変えるだけで一瞬にして表情を優しくする。
かつてドレイクはカイに『愛と恋の区別がついていない』と言った。その後、両者の違いを理解するようになってもカイはジュール・ヴェルヌ乗船時代から伝えられてきた三四郎の気持ちを表す言葉の意味を深く考えたことがなかった。なぜならそれは『愛している』ではなかったからだ。
『愛している』と『惚れている』の境目は曖昧で分けることはできない。
カイは裂くのを待っていた指を滑らかな舌で舐め始めた。
「カイ……?」
こんなにも長いあいだ愛されて恋されてきたなんて……
あまりにも近すぎて、あまりにもさりげなくて、他の誰とも違いすぎてわからなかった……
カイはゆっくりと含んだ指から口を離す、そして濡れた唇で微笑む。
欠けた気持ちなど聞きたくない、欲しくない。
「その必要はない、私はおまえの『惚れている』がいい」
そう言いきり『愛と恋』の違いを教えた彼の最愛の両親に胸の内で伝える。
ドレイク、アルシノエ、あなた方は知ってましたか、『愛と恋』を一つにした言葉があることを。
「あんた今まで本気にしてなかったじゃないか」
鼻で笑って無視されてきた言葉がいいと言われた三四郎の目は真ん丸だ。
「おまえの『惚れている』はドレイクの『愛している』と同じだ」
「………なんか素直に喜べない……」
あのオヤジさんと同じだって、てらいもなく口にされていた『愛している』と同じだって、嘆息した男は何とも言えない表情だ。
「おまえもドレイクも嘘は言っていない。ただ私の心まで届くのには時間が必要だった……」
「エムパスなのに」
「エムパスだから」
微妙に違う感情の色を読み取る高い能力が不安を抱えるカイに猜疑心を植え付けたのだ。そしてそれは今も枯れてはいない。
カイはギブスで固定された三四郎の腕に手を伸ばす。通信で見た彼に怪我らしい怪我はなかった。
「月に帰るために折ったのか」
「さすがにドンパチでやるには加減が効かないからな、バサラに頼んだ。ぽっきり折ってもらって診断書をもぎ取った」
確実に前線を離れるために利き腕を折らせたのを大したことでもなさそうに軽い口調で彼は言ってのける。
「で、ターミナルコロニーまで飛んで、金積んでワープ船に潜り込ませてもらって帰ってきた。痛い出費だけど背に腹は代えられないからな」
藍を怒ることも憎むこともできないカイが思考の深みに嵌り込む前に三四郎は帰ることにしたのだ。
「あんたが殺したいほど藍を憎めたら良かったんだがな……」
相手が藍じゃあな……声に出さない言葉が三四郎の眼を翳らせる。
「こういうのは怖くて嫌いだ」
自分を削るように追い込んでやつれていくカイが怖い、外側の敵なら何とかできても内側のそれはどうにもならない カイが自分で自身を許さない限り三四郎にできることはない。それでも、彼は傍にいようと月に戻った。
翳りのある目の意味を読んでカイは折れた腕に頬を寄せた。
「……私のために帰って来たのか……おまえはそういう男だと思っていなかった」
「俺はあんたのバディで恋人で家族だろ」
当たり前のように口にした男の顔を切なく煙る目が見上げた。
遠い昔、三四郎は仲間だという男のために無断でジュール・ヴェルヌを抜け出そうとしたことがある。だが重罪だと知りながら駆けつけようとしたにもかかわらず三四郎は『仲間』の元に戻らなかった。
「……家族か……藍がいなくてもおまえは私の家族でいてくれるのか」
大切な『絆』の一つである『家族』があんな風に中身のない形だけのものになっていくのは耐えられない。
「おまえが私の家族だというのならその証が欲しい」
不思議そうに首を傾けた三四郎を見詰めたまま証を求める。
「おまえの名前が欲しい」
驚きに黒曜石のような目が見開かれる。
「俺の名前……?カイから三四郎に変えるって?」
名前をその時々で変える月人の習慣を知る三四郎は困惑を隠さない、それってややこしくないかと真顔で問われカイはゆっくりと首を振った。
「私はおまえの『家族』になりたい、だからファミリーネームが欲しい」
『家族』の概念の薄い月人にとって大切なのはファーストネームでファミリーネームに関心はなく登録上の記号のようなものだった。それはカイも例外ではなく月の指導者となってからも『ドレイクの後継者』を内外に示すために彼のファミリーネームを利用してきた。
「マキノの名を証として私にくれ」
同じファミリーネームを名乗る意味を知っている三四郎が息を飲んだ。
「そっそりゃああんたが一族に入るって言ったら他の兄弟たちは喜ぶだろうが……俺とだろ? 月の元首様が傭兵と???」
「おまえの一族は関係ない、おまえと私、それから藍、三人の家族だ。……たとえ拒絶されても私は藍の親でいたい」
一つの名前で繋がった家族になりたい。
カイの名はドレイクが、イシスの名はアルシノエが最後に、そしてマキノは三四郎が 月人にとって名前は愛し愛された証であり、精神そのものだ。
月人の生き方を遠ざけてきたカイは月人として哀願する。
「おまえの名が欲しい」
月面政府の公式発表でカイと三四郎の『結婚』を知ったサンドラからその日のうちに公邸にタキオン通信が配属艦から入った。赴任空域は明らかではないが通常通信が使えない距離にいることは間違いない。
艦長室のプレジデントチェアーに着いた小柄な彼女は普段より少し大きく見える。
ひどいわ、何の連絡もナシでいきなり結婚しちゃうなんて。あなたたちの結婚保証人になり
たかったのに。
画面越しに灰色の目で睨まれてカイは軽く頭を下げた。
「すみません、友好条約更新調印に間に合わせたかったものですから……保証人はロードとドクターにお願いしました」
翌朝、登庁前に藍の病室を訪れたカイは彼のメディカルチェックを終わらせたロードと凱に保証人を依頼したのだ。
ドクターに頼んだの……!
一瞬言葉に詰まったサンドラが呻いた。出自のはっきりしない藍のために危ない橋を渡っただけでなく、誉れ高いマキノ一族に加え、凱は名付け親としてその慣例に則ったアインの名を付けた。カイの意識がどこにあるとしても公の場でのパートナーは凱だったのだ。
その凱に三四郎との結婚保証人を依頼するなど残酷極まりない。
……よくドクターが引き受けたわね……
「彼には申し訳ないことをしたと思っています」
保証人の依頼に遣る瀬無く微笑んで了承した凱は眩しげにカイを見詰め自嘲と共に告白した。
サーの付けたカイの名をあなたが変えることはないと思ってました、だからいつか近衛の名を受け入れてくれたらと…… 紙切れ一枚で結ばれる関係に三四郎は興味を持たないと見込んでいた凱は、家族になってもドレイクのファミリーネームを使うカイに一縷の望みを託していたのだ。
ドクターも往生際が悪いから……で、藍はどうなの? あなたたちの結婚に大反対でしょ、養子
縁組できそう?
これまでも親権者としての正式な手続きはせず後見人の立場に居続けたカイの思いを勘の良いサンドラは見抜いていた。
保護者を必要とし、環境に左右されやすい子どもの弱い意志に付け入るような形で我が子に迎えたくないという思いがカイに一線を引かせていたのだ。
「それはまだ……それでも私は藍の父親でありたいと思っています。いつかあの子が私を『お父さん』と呼んでくれれば……」
切なさを瞳の色に変えたカイにサンドラの眉が上がる。
藍は二人のお父さんを持ったことになるのね。どう区別をつけるつもり?
「その件については三四郎と話し合って決めました。彼は『オヤジ』でいいそうです」
ふふ、三四郎らしい、その三四郎はちゃんと月の終身執政官を伴侶にした意味をわかってる
の?これから連名で公式行事の招待があることも、公務に駆り出されることも……ドクターの
影武者をやった時とは比べ物にならなくなるのよ
社交辞令どころか一般常識ですらおぼつかない三四郎の社交界での苦労を見たことのあるサンドラの顔が杞憂で曇っていた。
「すでに友好条約更新後の公式パーティーを拒んで赴任先の惑星に逃げていきました」
カイは肩を竦める。
「あれに期待はしていません、私が一人で出席します」
これまでのように同伴者として凱を伴う気もないと言外に告げる。
あなたたちときたら結婚してもバラバラなんて少しも変わってないじゃない!
そう言いながら天を仰ぎ見た彼女はふっと息を吐いた。
変わらない、変えていない、しかしカイはまっすぐに顔を見て話してくれた。自分の家族への思いとこれからを、優しい声と表情で……だとするならば二人にとって生き方は変える必要のないことなのかもしれない。
カイがそう言うのならそうなんでしょうね。でもリリアンと大佐の結婚式の招待状は連名で出す
から絶対に三四郎を連れてくるのよ。
三男とはいえレックスは伯爵家出身だ、親族も招待客も相応の人物が集うことになる。
いつもみたいに大佐と酒と女の話をさせないでね、今のうちから自分の亭主をしっかり調
教しておくのよ
「お調子者の鍍金はすぐに剥ますよ」
画面な向こうでサンドラが朗らかに言い放つ。
そんな男に惚れたのはカイでしょう!!
えっちがなーい!! け・ん・ぜ・ん!!!!