80年代のビデオ・バブルにおいて、ハーシェル・ゴードン・ルイスとともにビデオテープ
日本で再評価されるとともに熱狂的な支持と、痛烈な非難とを受けたのが
イタリアの鬼才・ルチオ・フルチ監督ではないでしょうかイタリアの国旗

日本におけるルチオ・フルチ作品はマカロニ西部劇の傑作『真昼の用心棒』(1966)
と、出世作となったゾンビ映画の金字塔『サンゲリア』(1979)の2本がわずかに
劇場公開されるにとどまり、60~70年代にかけて質の高い娯楽映画を
数多く発表した割には、その実力が認められるまでには時間がかかりました。

個人的にはルチオ・フルチといえば『女の秘めごと』(1969)がもっとも好きで
次に『マッキラー』(1972)、『ザ・サイキック』(1976)、『幻想殺人』(1971)、
それから『サンゲリア』以降のゾンビ物も好き……ということになるのですが
世間一般ではいまだにフルチというとゾンビ映画の監督という偏見が根強いです。

かくいうわたくしも、当初ルチオ・フルチを認識したのはスプラッター映画でした。



ぼくが初めて見たのは『ルチオ・フルチの新・デモンズ』(1990)でした。

レンタル・ビデオでアルジェント製作の『デモンズ』(1985)、『デモンズ2』(1986)、
『デモンズ3』(1988)を楽しんだ僕は、ちょっと遠くのビデオ店に行ってみたときに
『ルチオ・フルチの新デモンズ』というビデオを見つけて「お、新作だ」と注目。

もちろん『デモンズ』シリーズとは無関係の作品で、内容にもつながりは
まったくないのですが、それを言うなら『デモンズ3』がすでに前作とは
何の関係もない話だったので、当時(小学生)は疑問に思いませんでした。



それまでの『デモンズ』シリーズも好きでしたが当時のぼくはとりわけ
『新・デモンズ』がすっかりお気に入りの一本になったのでした。

尼僧がはりつけにされるショッキングなオープニングから異様な雰囲気で始まり、
船の錨に突き刺さった生首が腐乱した状態で引き上げられるシーンの異様な迫力、
猫に目玉をえぐり出される女や、舌に釘を打たれる男など、凄惨な残酷描写が
生々しい特殊メイクと異様なムードによって描かれており、衝撃を受けました。

フェ○チオされて快感に悶えてるイケメンがイク寸前に首筋にナイフを刺されて
本当に昇天してしまうエログロなシーンも少年には激しいインパクトでしたヒデ


そして『新・デモンズ』には『デモンズ』1・2・3を製作したアルジェントが
関わっていなくて、これはアルジェントとともにイタリアン・ホラーの帝王の
一人と見なされていた「ルチオ・フルチ」の映画であることを認識しました。

なんといっても「ルチオ・フルチ」という名前の響きが魅力的に感じました。

フルチは『サンゲリア』(1979)というゾンビ映画の名作によって脚光を浴び
80年代にイタリア製スプラッター映画の鬼才として多くの傑作を発表した
ということを書物などで調べて知りましたが、あいにく『サンゲリア』の
ビデオはぼくが行ける範囲内でのビデオ店には置いていませんでした。

その代わりに、どこのレンタルビデオ店に行っても必ず置いていたのが



東芝ビデオから出ていた『地獄の門』(1980)だったのを懐かしく思い出します。

このビデオは「にっかつビデオ」と同様にアクリル製の透明ガラス・ケースで
にっかつの『悪魔の墓場』(1974)、『魔鬼雨』(1974)、『マニアック』(1980)や
大映ビデオの『悪魔の沼』(1975)、『デッドリー・スポーン』(1983)の隣にありました。

それでずっと気になっていたんですが、なにしろ見たいビデオはいっぱいあるので
ずっと後回しにしていたんですね。でもルチオ・フルチの映画ならば見てみようと
いうことで、『地獄の門』のビデオを借りて見てみることにしました。



で、『地獄の門』を見たんですが、当時はストーリーが理解できませんでした。

特にヒロインが悲鳴を上げて終わるラスト・シーンが意味不明だったし
ビデオの表紙に堂々と写真が載っているドリル殺人シーンなんかもあまりにも
唐突で、これはゾンビに殺されるわけではなく犯人も罰を受けるわけでもなく
見終わった後に「あのドリル殺人の意味はなんだったのだろう…」と悩みました。

しかし、つまらなかったのかと言うと決してそんなことはありませんでした。

全編にみなぎる異様なパワーがスプラッター全盛期の熱気を感じさせており
ダンウィッチの町全体に死の空気がたちこめるムードの迫力と緊張感、
ゴシックな怪奇ムードと対比するように80年代的な凄味のあるスプラッター・
シーンも見応えたっぷりで、引き込まれる映画ではありました。

とくに霊媒師の女性が降霊会の最中に変死からの棺の中で蘇生するくだりは
異様なまでの緊張感に支配されていて、怪奇映画らしい迫力がありました。


それからしばらくの間は、ルチオ・フルチの他の作品を目にする機会は
ほとんどなかったのですが、書店で購入したホラー映画に関する書物に
フルチの作品に言及した部分があり、俄然として興味をそそられました。

評価の高かった作品は『サンゲリア』(1979)と『ビヨンド』(1980)の
2本だったのですが、あいにくとこの2作のビデオは行きつけのビデオ店には
どこにも置いていないという状態で、悶々としながら中学まで過ごしました。


キラキラ矢印『サンゲリア2』のオープニング、タイトルが『ゾンビ3』で驚愕!!

しかし、隣町のレンタルビデオ店で『サンゲリア2』(1988)を発見。

お目当ての『サンゲリア』ではありませんし、1を先に見てから2を見たいという
気持ちはあったものの、『サンゲリア』がどこにもない以上は仕方がないので
『サンゲリア2』をレンタルして鑑賞したのが中学生のころだったかなはてなマーク

始まるや否やオープニングで出たタイトルがZombi 3だったのでビックリ。



だって『ゾンビ3』(1980)という映画はTCCビデオから出ていましたからね。

『ゾンビ3』という題名の映画が2つもあるのに、『ゾンビ2』という映画は
いったいどこにあるのだろうはてなマーク
…間もなくその『ゾンビ2』とは『サンゲリア』の原題であると知りました。

で、『サンゲリア2』は今でこそ「最低映画」として轟轟たる非難を浴びていますが
当時まだ中学生だったぼくにとってはゾンビのメイクも魅力的で話も面白く
じゅうぶんに満足できる作品としてなかなかの高評価を下しました。
こうなると前作の『サンゲリア』もぜひ見てみたい…と願っていました。



所で『サンゲリア2』の日本版ビデオに載ってたこのキラキラ矢印写真ですが
本編にはこんなシーンは一瞬たりとも出てきませんでしたヒデ
『血まみれ農夫の侵略』(1972)でもそうでしたが、たまにこういう事ありますね。


転機となったのは高校進学の年、6月末のある日に学校の企画で
市内を走るマラソン大会があってそれに参加した時のことでした。

いつもの通学路とは逆の方向を走っていると、一軒の電気屋が目に入りました。
どうやらその電気屋ではVHSのビデオソフトを貸出ししているらしく
本棚に並べられた大量のビデオが、ガラス戸越しに見えたのでさっそく
部活が終わって6時すぎにちょっとその電気屋に立ち寄ってビックリ仰天!!

H・G・ルイス、ダリオ・アルジェント、その他の魅惑的なホラー・ビデオが
小ぢんまりとした電気屋の本棚に所狭しと並んでいるのを見てただただ呆然。
そして『サンゲリア』(1979)、『ビヨンド』(1980)、『墓地裏の家』(1981)
といったルチオ・フルチ作品も、その店で借りることができたのでした。

老夫婦が営む小さい電気屋だったのですが、どうやら息子がそういうの
好きだったようで、チェーン店の巨大なレンタル・ショップよりも
遥かに充実した在庫にただただ呆然とするばかりでしたねえ。
チェーン店よりもこういう個人経営の小さい店が馬鹿に出来ないんですよ。




で、あまりに豊富な在庫に、まずどれを借りるか悩みに悩んだのですが
やはり念願の『サンゲリア』(1979)を借りることにしたのです。

上にキラキラ矢印写真を載せたのは再発版のパッケージですが
当時僕が借りたのはこれではなく、同じSONYビデオから出ていた
赤い紙箱のパッケージに

ひえ~っ、眼球串刺しビックリマーク内臓ドバッの完全版で日本再上陸!!

とか書かれてたビデオでしたビデオテープ

6月末で、梅雨は過ぎ去り初夏の暑さが忍び寄る時期だったのを覚えてます。
初夏の晩に見た『サンゲリア』は夏の暑さを吹き飛ばす素晴らしい映画でした。
中学生のころに見た『サンゲリア2』とはまったく格が違う名作でしたね。



ジョージ・ロメロの『ゾンビ』(1978)の勝手な続編を名乗ったことで
トラブッたことは当時すでに本で読んで知っていたはずですが
すでにビデオを所有していたロメロの『ゾンビ』よりも僕は
だんぜん『サンゲリア』のほうがお気に入りになったのでした。

腐敗したゾンビの造形といい、情け容赦なしの残酷描写といい最高でした。
ミステリアスなオープニングからゾンビの登場、中盤の地獄絵図、そして
救いのないラスト・シーンまで見どころ満載で息つく暇もありません。
それまでに見たゾンビ映画の中でも金字塔と言ってよいほどの
魅力的な映画ですっかり気に入ってしまったのでした。

それまでロメロの映画はもちろん『バタリアン』(1985)、『ブレイン・デッド』(1996)、
『ZOMBIO 死霊のしたたり』(1985)、『ゾンビ・チャンネル』(1987)などかなりの
ゾンビ映画は見ていたのですが、『サンゲリア』こそこの分野の頂点に立つ
映画であると確信して、俄然ルチオ・フルチへの興味が増しました。




次にぼくを魅了したルチオ・フルチ作品は、非常に思い出深い
『墓地裏の家』(1981)であり、ある意味で『サンゲリア』を
凌ぐほどの強いインパクトを与えてくれたルチオ・フルチ作品でした。

何といっても『墓地裏の家』というタイトルが色々と想像をかき立てられ
中学生時代にホラー映画の書物でタイトルを知った時から気になっていました。

実際に『墓地裏の家』を見た感想は、『サンゲリア』さえも凌ぐ傑作で
あると思うほどに素晴らしい映画であり、それまで見たホラー映画の中でも
トップに選びたいほどのお気に入りになったのでした。

ミステリアスなオープニングから始まり、むせび泣くような哀しげな音楽が
流れる中で不思議なメランコリーをかき立てるような映像美が印象的でした。

『サンゲリア』とはかなり異なる詩情にみちたムードで展開しながら
突如として冷酷無情な残酷シーンが登場し、ねちっこく陰惨なパワーで
それまでの哀愁にみちた雰囲気を切り裂くような強烈な猟奇趣味も衝撃でした。



謎が謎を呼ぶストーリー展開も魅力的で、屋敷の中で何者かの墓を
見つけてしまう後味の悪さ。以前その屋敷に住んでいた男の変死の謎。
屋敷を去るように警告する少女の姿が、一家の幼い長男にしか見えていない…。

そして一家が何も知らずに暮らしている屋敷の地下室には何者かが
ひそんでいて、夜な夜な地下室から出てきては残酷な殺人をくり返し
人知れず地下室に戻っていく……という都市伝説的な怖さがミステリアスで
恐怖と詩情と残酷が一体となったこの映画にすっかり魅了されました。

そしてクライマックスでついに姿を現す、ゾンビ化したマッド・サイエンティスト
フロイトシュタイン博士のグロテスクな風貌にはドギモを抜かれました。
腐敗して崩れかけた顔、肉体はドロドロに腐って内臓をウジ虫に食い荒らされて
いるために重心を取れずにフラフラ歩く姿は悪夢のような薄気味悪さ。

それでいて信じられない怪力を発して、次々に残虐な殺人を犯し
死してなおゾンビ化してまでも残酷な人体実験をくり返す……という
異様なキャラクター設定と異様な造形に、もはや感動さえ覚えました。

そして何といっても哀愁たっぷりのテーマ音楽の虜になりました。
シンセサイザーだけの演奏なのでオーケストラのリッチさがないんですが
メロディが良いと音楽ってシンセだけでここまで魅力的なんだなあと感心。


すっかりルチオ・フルチの虜となったぼくを次に待ち構えていたのは
『サンゲリア』『墓地裏の家』を凌ぐ恐怖と残酷に満ち溢れた……



『ビヨンド』(1980)という想像を絶する地獄絵図なのでした。

これ以前に中川信夫監督の『地獄』(1960)という映画を見て感銘を受けましたが
フルチが『ビヨンド』で描き上げた地獄絵図こそ、まさに本物の地獄が
目の前に広がっているのを見てただただ唖然とさせられるのでした。

まず、ゾンビが出る映画であることは知っていたのですが、すぐにゾンビを
出すのではなく、ミステリアスな雰囲気の中で徐々に恐怖にからめとられて
ゆくのをじっくりと描いていた点が気に入りました。

古びたホテルの地下室から発見された謎のミイラ、警告を発する盲目の女、
人類の滅亡を予言する謎めいた「エイボンの書」とホテルに隠された秘密…。

ミステリアスな謎の断片がパズルのピースのように現れ、見る者を暗く深い
闇の中へと誘ってゆくような奇妙で不気味なストーリーの怖さ、そして
ここぞという所で観客に衝撃を与える壮絶な残酷シーンが強烈でした。

そして、残酷シーンに満ち溢れながらも画面は常に妖しく幻想的な
美しさの映像美で彩られており、背景に流れる美しい音楽と共に観る者を
恐ろしくも妖しい甘美な悪夢の世界へと誘うのでした。

thebeyondbr-01.jpg

『墓地裏の家』のビデオに収録されていた予告編を見て、異様な映画であると
想像はしていたのですが、実際に見た『ビヨンド』を予告編からの想像を
遥かにしのぐ恐怖を見せつけられ、完全にルチオ・フルチに心酔してしまいました。

事前の期待が大きいと、実際に見たときの肩すかしが多かれ少なかれ
あるものですが、フルチの『ビヨンド』に関してそれは当てはまりません。
予告編を見て想像していたのを遥かに凌ぐほどの恐怖と残酷が目の前に
突き付けられ、高校生の時に見たときはかなりのショックを受けました。

特に下水管の工事に来た業者が顔を潰されるシーンが、予告編でチラッと
見たときよりも本編のほうがはるかに怖くて残酷だったのが印象に残ったし
少女の顔面が破裂するシーンも「そこまでやるかはてなマーク」とビックリするほど
生々しい描写・演出になっていて、とにかく強烈なインパクトがありました。

そしてラストに現れる地獄の描写は、恐ろしくも美しいまさに地獄がそのまま
目の前に広がっているような強烈なビジュアル・イメージでありました。
壮絶な地獄の描写と、そこに主人公が目を奪われて番人として取り残される
悲惨な結末の絶望的な悲しさ、その背後に流れる美しい音楽が印象的で
当時はこれ以上に怖いホラー映画はこの世に存在しないとさえ思いました。

今でも本当に怖い映画の一本として『ビヨンド』を挙げても良いと思っています。


ここまでの作品はどれも本当に怖くて楽しかったのですが、さすがにその他の
作品となると、『マンハッタンベイビー』(1982)、『怒霊界エニグマ』(1987)、
『ホラーハウス』(1989)、『クロック』(1989)など微妙な映画ばかりで
『墓地裏の家』『ビヨンド』の衝撃を超える作品にはめぐり逢えませんでした。



また、『ルチオ・フルチの新・ゾンゲリア』(1989)なるビデオを発見して
かなり期待して借りたのですが、「なぜこの映画に『ゾンゲリア』(1981)の
タイトルをつけたのかはてなマーク」と疑問に思うような作品であり、正直言って
面白い映画ではなく、しかも監督はフルチですらありませんでした。


また、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』をフルチが映画化した作品が
あると知ってかなり期待しながらビデオを探したのも想い出深いです。



『ルチオ・フルチの恐怖!黒猫』(1981)はタイトルを知った時から
かなり期待していたんですが、『キャリー』(1976)、『殺しのドレス』(1980)
で知られる作曲家ピーノ・ドナッジョが奏でる華麗な音楽の美しさにうっとりと
させられたのもつかの間、映画本編はどうも退屈で、雰囲気は良いんですけど
話はあまり面白くないし、残酷描写もほとんどないので困ってしまいました。

『恐怖!黒猫』ってタイトルとビデオの表紙、ドナッジョの音楽は最高なのにな。
ポーの『黒猫』なら『マスターズ・オブ・ホラー/悪夢の狂宴』(1990)で
ダリオ・アルジェントが演出したエピソードのほうが面白かったですね。


キラキラ矢印『恐怖!黒猫』の美しいテーマ曲 ピーノ・ドナッジョ作曲

何といってもピーノ・ドナッジョが作曲した『恐怖!黒猫』のテーマ曲は
聴いているとうっとりしてしまう、とろけるように甘美なメロディですね。
この美しい曲が聴けるだけで『恐怖!黒猫』には充分に価値があると思います。


イマイチな作品も多かったですが、それにしてもルチオ・フルチが関わった
映画はどの作品も、雰囲気づくりや細かい演出に光る部分が必ずあるので
どうしてもルチオ・フルチの作品を見たい思うのは抑えられませんでした。

それ以降はルチオ・フルチ作品に大きな期待はせずに見たところ、全盛期の
勢いは感じられないものの、どれもそれなりに楽しめる映画だと思いました。

『ゴーストキラー』(1988)、『タッチ・オブ・デス 死の感触』(1988)、
『ルチオ・フルチの地獄の門2』(1990)といった作品は、全盛期の風格は
すでに失われていたとはいえ、それなりに楽しめるB級作品ではありました。




フルチ晩年の作品では『ナイトメア・コンサート』(1990)が
突き抜けて面白いわけではないけれど、妙に記憶に残る作品ではありました。

ルチオ・フルチ監督その人が、本人を思わせるスプラッター・ホラー映画の
監督役で主演し、おびただしいC級ホラーを監督していくうちに精神的に
不安定になって、妙な幻覚や妄想にさいなまれるという話でした。

そしてそんな彼を殺人犯に仕立て上げようと、主治医の精神科医が
フルチの映画に見立てた残虐な殺人を犯してフルチに罪をなすりつける…。

『エルム街の悪夢/ザ・リアルナイトメア』(1994)にも通じるような
いわゆる「楽屋オチ」を取り入れた、こういうの「メタフィクション」
って言うんでしょうか、アイディアだけならなかなかの野心作だと思います。



フルチ版『フェリーニの81/2』(1963)と言えなくもないユニークな
構造の作品で、もっと予算をかけて丁寧に作っていたら傑作になった筈です。

ただ、『ナイトメア・コンサート』に関してはかなりの低予算が透けて見えて
残酷シーンは他の映画からそのまま流用しているために緊張感が欠けており
せっかくの面白いアイディアが充分に活かされていない勿体なさがあります。

それでもこれはルチオ・フルチという特異な監督の自画像的な作品として
ファンにとっては一見の価値があるユニークな映画と言えるでしょう。


多くの人がそうであるように、ぼくもルチオ・フルチという映画監督を
スプラッター・ホラーの帝王として長らく認識していました。

しかしそのうち、ルチオ・フルチが単なるスプラッターだけの監督では
ないということが、遅ればせながら分かってきたのでした。

それは、高校卒業の間近に開店したレンタルビデオ店に立ち寄った時に



『ルチオ・フルチのザ・サイキック』(1976)を見たことが始まりでした。

ジェニファー・オニールやマルク・ポレルといったヴィスコンティ作品の
出演者をキャスティングしたことからも、後のフルチ作品に比べていくぶんか
豪華な雰囲気をもったこの映画は、超能力を扱ったオカルト映画を装いながら
実は本格的な推理ミステリーであり、同時に優れた心理サスペンスでもありました。

冒頭でのほとんど意味のない転落死シーンは、いかにもB級ホラーっぽい
安っぽさでありますが、話が進むにつれて晩年のアガサ・クリスティーが
よく取り上げたような「過去からよみがえる殺人」の謎に迫ってゆく
本格的な犯人捜しミステリーとして展開するのでした。

title.jpg

テレパシー能力をもった女性が見た、過去の殺人を連想させる奇妙な白昼夢。
夢と現実の奇妙な一致に不安を感じた彼女は、見えない糸にあやつられるように
壁の中に塗り込められた白骨死体を発見してしまう。

最愛の夫にかけられた殺人容疑を晴らすために、彼女は白昼夢の中で見た
意味不明な映像の断片を手がかりに、殺人事件の真相を探っていく。

じわじわと心理的な恐怖を盛り上げつつ、華麗な雰囲気の中で二転三転する
意外な展開と、恐怖に追い詰められていく心理的なスリルが描かれており
残酷描写がほとんどなくても、これだけ優れた恐怖映画を作り上げた
ルチオ・フルチの鋭く研ぎ澄まされた恐怖演出に、文字通り驚嘆しました。


その後、情報収集するうちにフルチが60年代から70年代初頭にかけて
『女の秘めごと』『幻想殺人』『マッキラー』といった推理サスペンス映画を
発表し、興業的には振るわなかったもののダリオ・アルジェントなどの
恐怖映画監督から絶賛を受け、フルチ自身も『幻想殺人』や『マッキラー』
といったサスペンス系の作品を誇りにしていたことを知りました。

それ以降は大学進学後、輸入盤でそれらの映画を観賞することによって
確かにフルチの傑作は『女の秘めごと』『幻想殺人』『マッキラー』
であるということを遅ればせながら認識したのでした。




『女の秘めごと』(1969)はヒッチコックの『めまい』(1958)を
モチーフにしながら、単なる換骨奪胎ではなく鮮やかなアレンジで
まったく新しいスリラーに仕上げています。さらにシニカルで
クールな視点によって、複雑に入り組んだ殺人トリックとその破たんを
華麗な映像美と緻密に計算されたストーリー・テリングで描き上げました。

一人二役トリックを映像的に鮮やかに描き上げた点では『めまい』を凌ぐでしょう。
先の読めない二転三転するストーリー展開と、ラストに待ち受けるどんでん返しから
人間の営みを冷ややかに見つめる運命の悪戯を感じさせるなど、スプラッターで
世界的に知られる以前のルチオ・フルチの華麗な演出手腕が冴えに冴えています。


キラキラ矢印『女の秘めごと』美しい愛のテーマ リズ・オルトラーニ作曲

映画音楽の巨匠リズ・オルトラーニが奏でる音楽も魅力的で、ゴージャスな
ビッグバンド・ジャズからサックスが官能的なメロディを歌う愛のテーマなど
全編にクールで華麗なジャズを取り入れた音楽も、後のフルチ作品の音楽とは
一味もふた味も違う大人の味わいを持った豊饒な映画音楽となっています。




そして『幻想殺人』(1971)は、長らく正規のソフトが発売されずに
幻の傑作とされていましたが、近年めでたくDVDが発売された幻想ミステリーです。

モチーフとなっているのはアガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』でしょうが
夢の中で見た殺人が現実となって…というミステリアスなストーリー展開のスリルと
事件の発端となる悪夢のシークエンスの、グロテスクで幻想的な映像美が魅惑的。

画面を二つに分割するスプリット・スクリーンやらせん階段を使った映像は
明らかにブライアン・デ・パルマにも影響を与えている点も見逃せません。

エンニオ・モリコーネが奏でる官能的で幻想的なメロディも複雑怪奇な
連続殺人劇を艶やかに彩っており、意外な犯人が明らかになるラストも
クリスティーの換骨奪胎に留まらないシニカルな味わいの結末となっています。




ちなみにフルチが80年代に監督した『マーダロック』(1984)は
『幻想殺人』のアイディアをふたたび流用したセルフ・リメイク的な作品でした。

しかし、『幻想殺人』ではラストのどんでん返しに向けて緻密に伏線を張り巡らし
二転三転するサスペンスフルな展開と共に終盤の謎解きで一気に逆転する
ミステリ映画のカタルシスを与えてくれたのに対して、80年代のリメイク
『マーダロック』では伏線の張り方が強引であったり、美女連続殺人という
美味しい素材をイマイチ活かしきれないなど中途半端な印象でした。


そしてフルチのサスペンス映画の中で、もっとも強烈な衝撃を受けた作品が



ルチオ・フルチの最高傑作とされる『マッキラー』(1972)でした。

イタリア南部の田舎町を舞台に起こる、黒魔術に呪われたような連続殺人。
少年ばかりを狙う連続殺人という衝撃的な事件を描きながら、事件の背景に
見え隠れする血縁社会の因習と差別、そして宗教の偽善と政治権力の腐敗。

その後のルチオ・フルチ作品とはまったく別物とさえ言っていいような
重厚なテーマと崇高なまでの悲劇性をたたえた傑作サスペンスでした。

この映画については評判を聞きながらもなかなかビデオにめぐり逢えずに
ほぼストーリーを結末まで知った状態でようやくビデオを入手したのですが
結末を知っていてもなお、この映画から受けた衝撃はかなり大きいものでした。



途中までいかにもいかがわしい存在として登場していたジプシーの女魔術師が
中盤で殺人の濡れ衣を着せられてリンチされて命を落とすという衝撃的な展開。
そのシーンにおいて女魔術師は、悲劇の主人公として崇高なまでの輝きを放つ。

残酷でありながら悲痛なまでの哀しさにみちた処刑シーンを、映画音楽の
巨匠リズ・オルトラーニが奏でる哀愁の名曲が、カンツォーネの女王
オルネッラ・ヴァノーニの歌声を乗せて華麗に美しく彩るのでした。


キラキラ矢印『マッキラー』の美しい主題歌 歌:オルネッラ・ヴァノーニ

「ああ、これは“ヴェリズモ・オペラ”なのか……」
『マッキラー』を見てぼくはそう思いました。この映画はスリラー映画というより
マスカーニやレオンカヴァッロが描いた“ヴェリズモ”の末裔だったのでしょう。


最後にもうちょっとだけルチオ・フルチの映画の想い出を語っておきます。



『ザ・リッパー』(1982)の大映版ビデオ・ジャケットは小学生の頃から
ビデオレンタル店で見かけており、ずっと気になりながらもジャケットを
飾る凄惨な血まみれ写真に気後れして借りることはできませんでした。
ちょうどMiMiビデオから出ていた『人喰いエイリアン』(1978)と同様でした。

『新・デモンズ』でフルチの存在を知る前からこのビデオの存在を認識して
いたのですが、これがルチオ・フルチの映画であると知るのはずっと後でした。

てっきりアメリカのC級ホラーかと思っていたのですが、まさかこれも
ルチオ・フルチの映画だったとは思いもせずにずっと過ごしていました。
で、フルチの映画だと知ったときは迷わずレンタルしたのです。



『墓地裏の家』ですっかりお気に入りになったルチオ・フルチの映画という
ことでかなり期待に胸をふくらませながらビデオを再生させたのですが…。

残念ながらこの作品に関してはそれほど面白いとは思えませんでした。
とはいえ、犬が腐乱した手首をくわえて走ってくる衝撃的なオープニングや
中盤の見せ場での殺人鬼 VS 警察の電話を使ってのスリリングな攻防など
サスペンスとショックにみちた見せ場は随所にあったので退屈はしませんでした。

MiMiビデオの『人喰いエイリアン』ではジャケットの血まみれシーンは
よそ見してると見逃しちゃうほどほんの一瞬だけで物足りなかったけれど
『ザ・リッパー』ではジャケットのシーンはねちっこく見せてくれたし。

が、犯人の正体とその動機がどうしても納得できず、見終えた後に何というか
タチの悪い冗談に引っかかったような後味の悪さが残ったのでした。
ちょうどアルジェントの『オペラ座・血の喝采』(1988)を見たときの印象が
まさにフルチの『ザ・リッパー』の後味に通じるものがありました。

そういうわけで決してお気に入りの映画ではないのですが、やはりビデオ店で
あのショッキングなジャケットを恐る恐る眺めていた時のドキドキが懐かしく
映画としてもなかなか魅力的なアイディアが散りばめられている点などから
お気に入りではないけど嫌いにもなれない、何とももどかしい映画という印象です。