【監督】 マルコ・フェッレーリ
【音楽】 テオ・ウズエッリ
【出演】 ウーゴ・トニャッツィ、アニー・ジラルドー
フェッリーニやパゾリーニといった、奇想の映画作家のかげに隠れてしまったためか
日本では、あまり有名ではないマルコ・フェッレーリ監督ですが
僕はとても大好きな監督です
フェッレーリの作風をかんたんに言い表すなら
早川書房の「異色作家短篇集」に通じる、ブラックな味わいでしょうか
貧しいナポリ男のアントニオ(トニャッツィ)は
マリア(ジラルドー)という、異形の女とめぐり遭います
特殊メイクは、ジャンネット・デ・ロッシ氏のお父様、アルベルト・デ・ロッシ氏
マリアは、生まれつき全身が毛で覆われた、猿女でした
アントニオは、マリアを金もうけのために利用することを思いつき
マリアを連れ出して、見世物にします
彼が考えたのは、猿女のストリップ・ショーという
悪趣味なアイディアでした
アントニオのもくろみは当たり
猿女とアントニオの、滑稽でエロティックなショーは
世界中で大評判となりました
金づるとなったマリアを独占しておくために
アントニオは、マリアと結婚します
利用されているとも知らないマリアは
アントニオの愛情を信じて、大喜びします
けなげな猿女と暮らしているうちに
アントニオにも情がうつって、彼女を愛おしく思い始めます
商売も夫婦生活もうまくゆき、やがてマリアは赤ん坊を身ごもります
しかし、そこから歯車が狂いはじめます
医者の診察を受けたところ、マリアの体質は遺伝性のものであり
生まれてくる子供も猿人間になってしまう、と診断されます
医者は堕胎を勧めますが、マリアは産みたいと言います
そして結末には
人間のもつ残酷さが心にしみる
ブラック・ユーモアがただよう破局が待っています
日本公開作品はすくないフェッレーリですが
日本でも観られる、『女王蜂』(1963)や『最後の晩餐』(1973)でも
その奇妙でブラックな味わいは楽しめます
マルコ・フェッレーリ監督
この映画のおはなしを聞いて
ジョン・コリアの小説『モンキー・ワイフ』を思い出す人がいるかも知れません
マルコ・フェッレーリの作風というのがまさに
ジョン・コリアやロアルド・ダールなどの
「異色作家短篇集」におさめられていた、奇妙な味の短編小説のテイストにちかいのです
奇想天外な発想のおはなしと
人間の残酷さを鋭く描いた、皮肉なラスト
そして、その裏にただよう哀しみが
ダールやコリア、ロバート・ブロックなどの短編を連想させます
猿女、というものが何を意味しているのかも
いろいろと考えさせられますね
観る人それぞれに答えがあって、ひとつではないのでしょうが
聖母とおなじ、「マリア」という名前がつけられてることを考えると
猿女とは、人間がもともと持っていた良心とか純真さで
それが欲望とか、悪意によって裏切られてゆくということと
純真なままでは生きていけない人間の哀しさ、ということなのかもね
猿女を演じているのは、大女優アニー・ジラルドー
大女優が、よく引き受けましたね
特殊メイクで怪人に変身しながら
ストリップ・ショーでは、とても魅力的です
こういう豪快な演技も見せてしまうところが、大女優ならではの役者魂です
『最後の晩餐』
死ぬまで食べつづける男たちの奇妙な「自殺」を描いた
『最後の晩餐』を観た人はわかるでしょうが
マルコ・フェッレーリの映画は、「異色作家短篇集」にはいっててもおかしくないような
毒のきいた辛口のブラック・コメディが多いです
『最後の晩餐』
人間の欲望、悪意、狂気を、ブラック・ユーモアたっぷりに描いたフェッレーリの映画は
日本でも、「異色作家短篇集」に夢中になった人たちに喜ばれると思うんですけどね
核戦争後の未来を舞台に、カニバリズムを描いた『人間の種子』(1968)とか
ミシェル・ピッコリが抱腹絶倒のひとり芝居を演じる『ディリンジャーの死』(1969)とか
死と狂気をブラックに風刺した、奇妙な味わいの作風は
ほかの監督の映画では味わえない魅力があります
フェッレーリの映画は
これも早川書房の「ブラック・ユーモア選集」にはいってても
違和感ないようなおはなしですね
『テナント/恐怖を借りた男』
「ブラック・ユーモア選集」にはいってた
ローラン・トポールの『幻の下宿人』は
ポランスキーが『テナント/恐怖を借りた男』(1976)として映画化しましたね
フェッレーリは、ポランスキーと共通する資質もあるのではないでしょうか
人間心理のダークサイドを、シニカルに見つめた
ブラックで奇妙な味わいのフェッレーリ作品は
もっと日本でも注目して欲しいと思います
「異色作家短篇集」にときめいた人には、ぜひ見て欲しいです