2人目の子供が出来て彼女は大病院をあっさりと退職して子育てに専念した。
今も同じであろう、近くに親でも居なければ共働きで仕事を続けることは難しい。
私ひとりの給料の生活は楽ではなかった。
妻は2人の子供を自転車の前後に乗せて、遠くの自動車教習所に通い、運転免許を取った。仕事に備えるためであった。
専業主婦の3年間は、彼女の人生で唯一ゆったりと自由な時間が取れた時期であったようだ。
田舎道を辿り、種子川沿いで草花を摘み、子供達との時間を存分に楽しんだと言っていた。
まだ角野新田社宅にも人が住み、楠の木の下に新田生協があった時代、懐かしい。
間もなく自宅近くの心臓外科で名の通った中堅の病院にパートで勤めるようになる。
2人の子供は瑞応寺にある幼稚園に通い始め、その時間だけの仕事であった。
3年後、子供達が小学生になった時、パートからいきなり婦長に抜擢された。
あの当時で正看護婦だったということと、患者に慕われる姿勢が買われたのだと思う。
フルタイムながら昼間だけの勤務に恵まれて、再び水を得た魚のごとく働いた。
小学校に入ったばかりの子供達を「鍵っ子」にしたくないと、
学校帰りの時間帯だけ近所のおばちゃんに自宅に来てもらった。
とても優しくて、きちんとした人だった。
洗濯物を取り込み、実に綺麗に畳んでくれていたことが印象に残っている。
娘が今も洗濯物を几帳面に畳むのは、あのおばちゃんの影響だと妻は言っていた。
30歳後半から40歳代、お互いに忙しく仕事に明け暮れる日々が続いた。
深夜の緊急手術(再開胸といっていた)などで駆けつけることもたびたびであったし、
当時私もまた製造現場勤務で夜間呼び出しが重なった。枕元に電話を置いて寝た。
子供達にとっては大事な年頃、気にはしながらもお互い働きづめの時代であった。
以後30年以上、彼女はこの病院に奉職する。
看護師が天職であった。
(続く)
