人に接することが好きで、昔から人の喜びが自分の喜び、といった性格だった。
新米看護婦の頃 彼女は暇を見つけては1人で整肢療護園や養護施設など訪ねていた。私も一緒に行ったことがある。
彼女は笑顔で子供達に声をかけ、とても慕われていた。これは多分誰も知らない一面である。
体の不自由な子や親のいない不幸な子たちに、過去の自分を重ねていたのかも知れない。
私とめぐり合ったのはこの頃だったと思う。
私は20歳前に結核を患い、彼女の勤める病院に半年間入院していた。
・・・仔細は省く。
彼女は定時制高校に通いながら准看になり、続いて難関の県の高等看護学院に進む。
当時は正看護婦の極めて少ない時代であった。
彼女の目指す道にブレはなかった。私も背中を押してやった。
道後温泉に近い所にあった学院での2年間が一番楽しかった時代だったという。
少人数のクラスで、級友全員とは深い絆と付き合いが今日まで続いていた。
卒業生の多くは後に県立病院や、県下の名だたる大病院の総婦長になっていった。
親の反対を押して看護婦になったことや、実母とのこと、勝手に私と付き合っていることなどで継母にヘソを曲げられ、その後深い溝が出来ていた。
7年間まっすぐ一筋に付き合った末に私たちは反対を押して結婚した。
私が26歳、彼女は2つ歳下だった。
市の公民館で、私の父母と友達だけのささやかな式と披露宴を挙げた。
彼女の継母は私達の結婚に最後まで反対し、ついに両親は出席してくれなかった。
その後、折をみて何度も妻の両親の元を訪ねたがいつも門前払いが続いた。
入院していた継父の見舞いに通い、生まれた子供を連れて何度か行くうちに、
やっと継母は心を開いてくれた。孫をダシに使ったことが効を奏したようだった。
気が強く頑固でわがままだが、甥姪や近所には好かれているような人であった。
一度結び目が解けると、その後は孫達を可愛がってくれた。
継父は間もなく糖尿病で亡くなった。
そして何年かして継母が脳梗塞で倒れた。
妻は毎日のように仕事が終わってから一時間かけて病院へ通った。
手術で一命は取り留めたが、その後寝たきりで意識も殆どないままであった。
仕事と子育てをしながら、彼女は病院と老人介護施設に通った。
一言も恨みごとは言わなかった。
弱音も吐かず3年間、継母を最後まで介護し、看取った。
恩返しが出来たと言った。
(続く)