OKINAWA MOVIE LIFE

OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄在住の映画ファンの感想文です。

Amebaでブログを始めよう!

2013/5/26鑑賞

@Tジョイ福岡



 ♪今日も団地が平和なのは~



 クドカン監督作としては4年ぶり。

 もともとクドカンは好きで作品は漏らさずチェックしていた。とはいえ、一時に比べ熱は冷えてきたし、ここ数年の作品はどうも同じところを回っている気がした。ただ、一昨年のドラマ『11人もいる!』や現在法お栄中の朝ドラ『あまちゃん』などがかなりいいので、この機会にと思い鑑賞。


 結論から言うと、確かにまとまってはいない。ただ、個人的に評価が上がらないのはその部分のせいじゃない。

 遠藤賢治さんのライブシーン、および彼のナレーションの具合、主人公がヒロイン(刈谷友衣子)が団地の向こう側の廊下を歩くのを観るシーン、冒頭のカーニバルなど、映画として上がるシーンも確かにあった。

 ただ、この映画のテーマでもある「妄想」がそんなに突き抜けていない気がするのだ。

 せっかく『ブルー・ベルベット』('86)を引用しているのだから、スクリーンの中では妄想勝負のハードルは思いっきり上がっている。そうでなくても、妄想具合なら同じクドカン作の『真夜中の弥次さん喜多さん』('05)のほうがうまくいっていたんじゃないかと思うくらいだ。ヤン・イクチュンの演技は素晴らしかったが・・・。

 そんなわけで、ひとつ提案がある。


 まずはこの曲を聴いてほしい。



 ダウンタウン松本人志の作詞による架空のヒーロー、「エキセントリック少年ボウイ」のテーマである。

 この曲はぼくらの世代(昭和60年前後生まれ)では知らない人がいないくらいだが、肝心の「エキセントリック少年ボウイ」は一度も放送されていない。

 ではなぜここまで親しまれる歌になったのか。松本人志の影響力もあるだろうが、架空のヒーローと言えばそれこそ中二的妄想の先発メンバー。それがストライクした世代であり、さらにヒーローものの主題歌を模していながら「同棲相手はオヤジの2号」とか「敵か味方かカーボーイ」とか、断片的なフレーズを潜り込ませることで、放送されなかったヒーロー番組を想像力でもって広がりを与えている。

 てか、そんな難しく考えなくても、中二的妄想ってそれくらいわけわからないものでしょ!クドカンの描く妄想はその辺突き抜けてないよ!


 でだ。確かに草なぎ剛の演技も悪くなかった。はっきり言ってしまえばあのキャラクターは狂人であり、よくよく考えたら『木更津キャッツアイ』('02)のオジーも狂人なんだよなと思ったが、逆算的に彼の行動が意味を持つことで生じるちょっとした怖さが、草なぎ剛の演技に合っていたと思われる。

 だが、本当に妄想について完成度を高めるなら、彼が演じた下山というキャラクターには松本人志を当てるべきではなかったか。そして、妄想の精度を高めるにあたって全面協力してもらうべきだった。

 映画ではパッとしない松本人志の再起をかける意味でも、彼の演じる下山が観てみたかった。

2013/5/25

@Tジョイ福岡


 今年の『サニー』はこれだ!


 サニーと同様に、過去についての記憶を呼び覚ます人物との出会いにより、過去にけじめをつけるタイプの青春映画。大好き。


 映画監督にして脚本家にしてスクリプトドクターにしてブルボニストの三宅隆太さんが去年のワーストムービーに選んでいたのが『サニー』だったわけです。去年一番好きな映画だっただけに、少なからずとまどいがあった。

 ただ、この前「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」という番組におけるコーナー「サタデーナイトラボ」内にて「心霊映画」特集をした際に、その理由がわかった気がしたんですね。

 心霊とはある時点で時間が止まっている者と定義される。そのため、時間を進めている人間をひきずりこむ存在として、恐ろしく描かれる。『サニー』は除霊に失敗しているのだ(それでもぼくは『サニー』好きだが)。


 さて、『建築学概論』。観終わった後、これは三宅監督好きになるんじゃないかと思った。


 この映画にはぼくがいた。


以下ネタバレ。


 この映画は、現在建築士として活躍する主人公と、彼に仕事を依頼しに来た初恋の人のエピソードと彼らが出会った時のエピソードが交互に描かれる。

 この構成だけでもぼくはぐっと来てしまった。あの頃あんなに頼りなくみえた人物も、ひとかどの人物に成長できるのだと。

 ただ、何よりもぼくがぐっときたのは、前述の定義でいうところの「除霊」の方法だった。


 初恋、それはたいてい報われないものだ。

 そして、若かりし頃の恋って要領がわからないゆえにあほうな行動をとってしまうものだ。


 この映画の中で主人公は初恋の人を「クソ女」と言っているようなそぶりがある。

 ただ、この映画を観進めていくと、主人公は一見被害者のように見えて、実は加害者だったんじゃないかと思えてくる。

 要は、過去に再度向き合い、自分が加害者だったということを認めることで過去にけりをつけ、現在に再度向き合うという、実に大人な着地が素晴らしいと感じた。


 それと、90年代を舞台にした青春劇というのは、自分にとってちょっとあこがれていたお兄さんたちの世代なんだなと実感した。

2013/5/16鑑賞

@桜坂劇場


 ヨノスケ・ヨコミチ/一期一会


 吉田修一原作の青春小説を『南極料理人』などで知られる沖田修一監督が映画化。

 原作既読の状態で鑑賞。

 映画とはそれを思い出している時こそが重要と言うが、この作品がまさにそうで、最初読んだ時はストーリー性も薄いので、少なくとも直後の印象はあまりよくなかった。

 ただ、読み終わって何日か経ったあとで、まるで横道世之介と過ごした日々が実際にあったかのようにありありと思い出されてくる。そういった状態での鑑賞だったので、とにかく至福の時間だった。

 ので、最初に言っておきたいのは、この映画は観終わった時だけの印象で評価を決定しないでほしいということ。観終わって1日後でも3日後でも1カ月後でも、何年後でも、ある日突然浮上してくる日がくるはずだから。


 基本的には原作に忠実に映像化されている。先に原作を読んでいる身としては「なるほどー、ここを省略したか」といろいろ感嘆したが、原作未読の方には説明を省いた部分についてわかりにくくなっているのではないかという危惧もある。この辺、未読で鑑賞した方の感想を聞いてみたい。


 映画の作りとしては『フォレスト・ガンプ/一期一会』('94)に近いかなと思ったんですね。ただ、あの映画はアメリカの歴史分岐点に居合わせたのがいわゆる知的障害者であるというところに、若干ロバート・ゼメキスの政治的なスタンスが見てとれるのですが、一方『横道世之介』はそういった点は皆無。

 要は、横道世之介という人物が様々な人物にとっての人生の分岐点に居合わせた、その様子が描かれます。ただ、世之介がほかの人を叱咤したりとかそういった展開はなく、影響を受けたのかなというのが知覚される直前くらいのところまでしかドラマは進みません。その点で、語り手が複数いる『スタンド・バイ・ミー』('86)と言ってもいいかもしれない。これちょっとネタバレかな?

 ともかく、ここがリアルだなーと感じた。誰しも人生の選択をする場面はあるわけだけれども、それを決めるのは結局自分自身である。ただ、自分ひとりで決めたわけではなく、経験した出来事がずっと頭の片隅に眠っていて、それがある日起きてきて自分の人生を動かすとか、そういったものなのかもしれない。そんな気がしたからだ。


 それ以外だと、役者陣も見事。特に、世之介のガールフレンドでありお嬢様の与謝野祥子役の吉高由里子は出色。「ハハハハハハハ」「世之介さ~ん」といった台詞が頭から離れない。ほかには、主人公の世之介演じる高良健吾がいいのはもちろん、綾野剛の演技もよかったなあ。そういえば、ライムスター宇多丸のシネマハスラーで世之介について主人公的な人物ではないと言っていたが、この点、どちらかというとバイプレイヤーとしての活動が目立つ高良に重なるのかもしれない。

 

 ただ、僕はもちろん世之介に好感を抱いているわけだけれども、例えば『サニー 永遠の仲間たち』('11)におけるサンミみたいに、世之介をよく思わない人物がいたほうが世界観に広がりが出た気がする。

 というのも、観る前にぼくは世之介は自分に似ていると思ったんだよね。ただ、世之介には屈託や卑屈な劣等感はない。ポスターなどで太陽の被りものをしているが、まさに太陽みたいな人物であり、基本的には、そりゃどんな人にも好かれるんだよね。

 それはむしろ世之介が特別な人物だという印象を与えかねない。だから、彼の空気の読めなさや、あるいは純粋さを受け入れられない人物を設定した方がより多くを内包する作品になったと思う。

 

 ただし、そんなことは瑣末な点なので。青春映画の傑作と言っても遜色ないこの映画を見て、どうか世之介と友達になってほしいと思う


横道世之介 (スペシャル版) [Blu-ray]/バンダイビジュアル
¥7,035
Amazon.co.jp

 去年の夏に『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』('86)の完全リマスター版が上映されるということで観に行った。それから今日にいたるまで、かれこれ4回は見直している。日々のふとした瞬間に思い出されることもある。間違いなくオールタイムベスト級の作品だ。個人的には、これと『オアシス』('02)があれば恋愛映画は観なくていいとさえ思う。


 なんでそう思うかというと、どちらも恋愛のもつ「共依存」の側面を描いているから。これは恋愛の持つ最大の負の側面だ。これを描いていない恋愛映画はすべて欺瞞といっていいい。また、この「共依存」によって助けられる魂があることも事実だ。

 で、『オアシス』もこちらもそうなんだけれども、時折リアリティを無視するようなシーンが出てくる。


 この映画は冒頭からアメリカのインディペンデント映画チャンネルとNerne.comが2007年に発表したThe 50 greatest Sex Scenes in Cinema の6位に選ばれたことで有名なシーンが出てくる。みうらじゅん先生の言葉を借りると「これ絶対入ってるよね」というような、なんかすごいリアルな。


 シーンが切り替わりゾルグ(ジャン=ユーグ・アングラード)演じる主人公がトラックを運転しているシーンになる。なぜ奇声をあげているのか。なぜチリをコンロにかけたまま外出しているのか。そして彼はその後チリを鍋から直接食すのだが、その時に口ずさんでいる歌。あれはそのままこの映画のBGMになっている。つまり、映画と私たちを分けるラインの上にあるはずのメロディをなぜ彼が口ずさむことができるのか(これは有名な曲のアレンジではなく、ガブリエル・ヤールによる映画音楽だったはず)。

 つまり、こういった感じで一事が万事、なにかがおかしいというシーンの連続なんです。

 個人的には後半にベティ(ベアトリス・ダル)が、おしおきとしてシャワーのひっかける部分につるされた息子を助けて、「三人の魔女の話をしてあげるからね」と言ったところがピークだと思った。


 ちなみに、この映画は1987年に日本で公開された時は大幅にカットされたバージョンで、これが『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』というタイトルがついている。その後、1992年に、カットされた10シーン中9シーンが追加され、上映時間も1時間近く追加され実に179分というランタイムになった『ベティ・ブルー インテグラル』として再度公開されている。

 見比べてみると、追加されたシーンのほとんどがゾルグのエピソードである。特に、ゾルグが自分を酷評した評論家に脅しをかける場面や、女装して銀行強盗をするシーンなど、ゾルグ側の狂気を感じさせるエピソードも多く、確かに最初『愛と激情の日々』を観た時はここは理解に混乱をきたしたなという気がする。

 するのだが、こういった混乱を伴う映画体験もこの映画には似つかわしいような気がするのだ。


 さて、この映画の解釈について思うところを述べたい。大幅にネタバレを含みます。


 要はこの映画、ゾルグは最後、精神に異常をきたし精神病院に隔離されたベティを窒息させ、息を止める。

 ゾルグの行動は弁護に足るものではない。この行動によってベティがスクリーンの中で永遠の存在になったとしても、だ。

 

 それで、ひょっとしてこういうことではないかと思った。

 要はこの話、「糟糠の妻を得て表現を掴んだはいいが、それとともに彼女の束縛がつらくなった男がひどい別れ方をした」というのが裏の物語として流れているのではないか。

 実際問題、世話女房タイプの人は芸術家にとって確かにインスピレーションの素になると同時に、相手をひとりの自立した存在として扱ってくれないことで相手にとってのアイデンティティを脅かす存在になることは往々にしてある。

 だから、ラストであの行動をとらせたことは、極端な行動をとらせることで自らに悪を集中させるマゾヒスティックな罪悪感の昇華行為であり、かつベティ(のモデルになったであろう女性)への贖罪の念から来たものなのかもしれない。この映画の持つメタ構造を暗示しているのが、冒頭で歌を口ずさむ行為なんじゃないかと思いますね。

 そんな映画を好きだと感じてしまう俺って・・・とは思う。


 だが、これだけオシャレ映画と言われていながら、実はものすごく生々しくて、そして決して欺瞞ではなく恋愛の真実の一端を描いているから、ぼくは惹かれてしまうわけですよ。


ベティ・ブルー 製作25周年記念 HDリマスター版 ブルーレイ・コレクターズBOX [Blu-.../Happinet(SB)(D)
¥7,140
Amazon.co.jp


 


倫敦どんより 晴れたら巴里


2013/2/9鑑賞
@桜坂劇場

 ウディ・アレン監督41作目。
 この3作くらいはどうにか劇場で観れてます。

 結論から言うと、この映画でウディ・アレンは恋愛、もしくはそれを初めとする人間の欲望を極限まで肥大させて描くことでひとつの教訓たりえる段階まで達させたのかな?

 この映画の登場人物は、恋愛にしろ、セックスにしろ、ビジネスにしろ、大なり小なり自分の欲望にしか興味がない。現実ならこういったエゴイストの近くに、我の強くない人がいて緩衝材になることが多いのだけれども、ここではそれすらありえない。だから、欲望と欲望が衝突して、結果、とんでもないことが起きる。
 それは、「欲張り過ぎてはいけない」という教訓にもなる。ただ、同時に「自分の欲望を押さえつけることが果たして正解なのか?」とも考えさせられる。
 例えば、ある人物がジムにおいて結婚しているある女性に対してアプローチをしかける場面があるのね。この時の彼の眼は「おれはあんたとセックスしたい」と雄弁に物語っている。しかも、彼はそれが拒絶されるなんて思っていない。自分に自信があって、セックスしたいと考えること、またはそれを相手に知られることを恥ずかしいなんて思っていないから。
 で、まあ実はこの人物、この映画の中で適当な罰を受けているわけじゃない。

 よくよく考えたら、ウディ・アレンの映画の中で罰を受ける人物とそうでない人物、それは『ウディ・アレンの重罪と軽罪』('89)という映画に如実に示されていたけど、その違いは要は「罪悪感の量」によって決められる。

 つまりは、欲望の行使にあたって少しでも罪悪感がある者はその欲望によってしっぺ返しを食らう。それがアレンの教訓なのかもしれない。

 じゃあどうすりゃいいのさ!と普段から罪悪感にとらわれやすいぼくは思ってしまうのだけれども、その答えを見つけるためにウディ・アレンの映画を見続けるのかもしれないな。


けせら・せら/マーベラス エンターテイメント

¥1,260
Amazon.co.jp