脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

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3月7日朝日新聞、<文化・文芸>欄である

【戦争の愚かさ 知ってほしい】仲代達也さん

 
記事では仲代氏本人の戦争体験を語り、近く上演予定の“反戦劇”が紹介される。最後に仲代氏のコメント。
「安保法制や北朝鮮の脅威など、戦争の足音が近づき、きな臭い時代になった。新劇精神を受け継ぎ、反戦や人間の生きざまを伝えたい。」
 
やれやれ、またか、である。
もちろん私自身、日本が起こした“あの戦争”など繰り返すべきではない、と思っている。しかし上記仲代氏をはじめとする“良心的”演劇人・映画人・文化人たちの、戦争といえば“あの戦争”という歴史的無知に基づく短絡的思考は勘弁してほしいのである。
 
歴史を振りかえれば、戦争の形は様々である。
不当な植民地支配からの解放を求めた独立戦争、大国の侵略から自国を守るための戦争、奴隷解放を求めた内戦、収拾のつかなくなった内戦を終結させるための他国による武力行使、などなど。
 
 
こうした“正義の戦争”について仲代氏らは決して触れようとはしない。歴史の無知。歴史からの逃避と言わざるを得ない。
一方で歴史を直視し歴史から学んだうえで、自国の平和のため、さらには世界の平和のために安全保障を考え“北朝鮮の脅威”に備えようとする動きに、仲代氏らは。自分を棚に上げて“歴史の無知、歴史からの逃避”などと根拠のない誹謗中傷を浴びせる。
 
“幸福な家族の形は一つだが、不幸の形は多種多様である”という格言がある。トルストイの言葉だったか。

これになぞらえて言えば

 

平和の形は一つだが、戦争の形は多種多様である

 

といえる。現代において一層複雑化した戦争紛争テロ対策の形を、70年以上前の“あの戦争”だけをテキストに判断対処などできようはずもない。

 
そもそも“あの戦争”のような“資源と安い労働力を求めて植民地の奪い合いをする”ような戦争など現代においては起こりようもないのであるが。

 

目の前の現実世界を直視し分析し、様々なテキストを駆使し判断対処しなければ、彼らの言う、“戦争の惨禍を繰り返してはならない”など実現しようもないのである。

 

 
 
 

 

 

 

民進党と希望の党をめぐるゴタゴタで、また“リベラル派”って単語が飛び交っている。が、自称他称を問わず、相変わらず日本では“護憲派”とイコールで使用されている。

が、もちろん世界中見回しても“軍事力はいらない”とか“軍事力の存在を憲法に明記してはならん”とかいう“リベラル”など存在しない。

改めて言う

『日本のガラパゴスリベラルは限界だ』

 

(上記記事参照。) 

 8月。毎年この時期はあの戦争の記録・記憶、そして原爆の悲劇・悲惨さが繰り返し報道される。

 そして今なお拡大する核開発競争に対し、あるいは“核兵器禁止条約”の批准に、核保有国も日本も加わらなかったことについて、次のようなコメントで締めくくられる。

 

 “被爆者の声は今だ世界に届かないのでしょうか”

 

 果たしてそうか。

 

 広島、長崎への原爆投下から72年、この間、指摘されるように世界の核兵器は数度の核軍縮を経て最盛期よりは減少したとはいえ、現在も一万発を超えるという。また、NPT(核拡散防止条約)などお構いなしに、核保有国も北朝鮮を加え9カ国にまで増殖した。

 

 だが一方でこの72年間、核兵器は一度も戦争で使用されていないのである。

 この間、スターリン・毛沢東・ネタニヤフ、そしてブッシュと、戦争大好きな相当やばい人物が核のボタンを手にしていたにもかかわらず、である。

(核実験による意図的トバッチリはあったにしろ)

 

 何故か。それは被爆者の皆さんが声を上げ続けたからである。原爆の悲惨さを訴え続けたからである。核兵器とは“絶対に使用してはならない兵器”であることを世界に訴え続けたからである。

 そうした声を受け止めた人類の良心の前に、彼らヤバイ人物たちとて一線は越えられなかった。

 被爆者の声が確実に核使用の抑止力となっているのである。

 

 安らかに眠って下さい。

 過ちはまだ繰り返していませんから。

 

 

追記。

 とは言うものの上記のヤバい人達に比べても、金正恩とトランプは相当やばいよなあ。