ずっと書けなかった
2019年1月2日のこと。


私はこの日の自分と
向き合うことをずっと避けていました。



  


父はこの日
声を上げて泣きました。


泣き崩れる父の姿を見たのは
この日が最初で最後でした。








父が12月18日に入院してから
私はほぼ毎日病院に通いました。


父から
私と姉以外には
お見舞いを遠慮してもらいたいと言われていたので

近くに住む親族や友人も
病室へ行きたくても行けない状況でした。



私と姉でとにかくこの時は
なんとか父をサポートするしかありませんでした。


これまで
父の闘病生活に非協力的だった姉。


何度となく裏切られ、
振り回され、
正直顔も見たくないほどでしたが、

もうそんなことを言っていられる
状況ではなかったので

とにかくこの時は必死になって
私と姉で
父のことをサポートするしかありませんでした。



もう誰がどうみても
ひとり暮らしの家で
過ごせる状態ではなかったので

父が入院して
医療の目が行き届いたところにいれるだけで
ホッとしたところもありましたが、


父に残された時間が
もう長くないことも先生から聞いていたので

あの頃の私は
とにかく父のためにできることはなんでもやろうと思っていました。



今思えば
父のために…というより
自分が後悔しないために
頑張っていたのだと思います。





父が入院してすぐ
こども達が冬休みになりました。


中学受験を控えている上の子は
冬休み早々
塾の冬季講習が始まりました。



世の中は年末年始。
忙しい時期でした。

こども達のスケジュールを調整しながら
時間をみつけて 
父のところへ通う日々が続きました。




姉も病院へ顔を出してくれていましたが、

父が頼りにしたいのは
今までのことを全てわかっている私なんだということは私が一番わかっていました。



私がやるしかない、
私しかいない、
今頑張らないときっと後悔する、



そんな気持ちが
どんどん自分の心と身体を
追い込んでいきました。




お正月、
一時外泊をしてもいいと
主治医から言われていましたが、

病院の方が体が楽だから と
父は病院で過ごすことを選びました。


この頃の父は
一日の大半を眠って過ごしていました。

食欲の方も全くなく
食べ物をみることも苦痛で
食事の時間は
病室への配膳を断っている程でした。



それでも私は
元旦には
おせち料理を少しずつ詰めて

家族みんなで
父のところへ顔を出して
形だけでも
みんなでお正月を一緒に過ごせたら…と
考えていましたが、


父にはもう孫と会う
気力も体力もありませんでした。


あんなに大好きで
可愛がっていた孫に会うことを拒むほど
父には力が残されていなかったのです。


どんなに悔しかっただろう。
どんなに会いたかっただろう。








それでも父は
私には病室へ来てほしいと言いました。


おせち料理は
せっかく持ってきてもらっても
食べられないから持って来ないで

と言われたので

元旦はいつも通り、
私一人で病室へ行き、
足をマッサージしたり、

眠っている父の横で
本を読んだりして

面会時間ギリギリまで
病室で過ごしました。



翌日の1月2日は
唯一家族で過ごせる時間だったので、


明日は私も家でゆっくりさせてもらうから
次はまた3日に来るね!と
父にも伝えました。



父は 
わかった と言いました。








1月2日 午前0時を回った頃、
父からLINEが来ました。


…………………………………………
おせち料理
ひとくちずつでいいから もってきて

無理だったらいいからね
…………………………………………




その頃、
スマホを開くことさえ苦痛で
LINEが打てる状態ではなかったので

父からこのLINEがきて
本当に驚きました。



そして
LINEの内容を見て

この時の私は
こんな感情になってしまったのです。



どうして今頃?
それならさっき持って行ったのに…

明日は家族で過ごさせてねって言ったのに…

私だって少し休みたい…



この頃の私は
身体も心もいっぱいいっぱいでした。

病院通いの日々に疲れていました。
 

ゆっくり休みたい…
私だって少しは家族と過ごしたいよ…


本当におせち料理が食べたいの?

それとも
私に病院に来てほしいから?





父のLINEをみて
そんな風に思ってしまったんです。
最低です。


食欲がなかったお父さんが
食べたいと思えたことが嬉しいよ


今までだったら
そう思えてたはずなのに

この時はそんな風に喜んであげられる
余裕がなくなっていました。





1日でいいのに
どうして休ませてくれないの?


そう思ってしまったのです。






翌日1月2日。



家族と過ごした後
夕方、
父のところへおせちを届けに行きました。  



父のため…というよりも
結局は自分が後悔したくないから。




今日は病院まで車で送ってもらい、
父におせちを渡して
すぐ帰るつもりだったので
病院の外で主人とこども達を待たせていました。


病室へ入ると父は眠っていたので

起きたら食べられるように
サイドテーブルに支度していると

父が目を覚ましました。



父)
あれ?
今日は来れないんじゃなかったのか?

私)
うん…
そのつもりだったけど
おせち持ってきてっていうからさ…



私は
素っ気ない返事をしてしまいました。


私)
ここに準備しておいたから
あとでゆっくり食べてね

今日は車できてて
外で待たせちゃってるからもう帰るからね

また明日くるから




私はそう伝えて
帰る支度をしました。


すると父は

父)
待って。今すぐ食べるから。少し待ってて。

といい、
箸を手にとり食べ始めました。



父は私が帰ることを
どうにかして
引き止めようとしているように感じました。



食欲はなかったはず。

ひとくち、ひとかけらを
やっとの思いで口に運んでいました。



そして
ひと噛み、ひと噛み、
噛みしめながら



父)うん、おいしい、おいしいよ


と言いました。



車で待たせてることも
気になっていたので
私は少し待った後 父に伝えました。


私)
  慌てないでゆっくり食べて。 
  車で待たせちゃってるから
  今日はもう行かないと。
  明日また来…



私がそう言いかけた時、
父が声を上げて泣き出しました。



突然のことに
私はどうしていいかわからず
声をかけてあげることができませんでした。



父は

タオルで涙をぬぐって

忙しいのにありがとうな
もう大丈夫だから


と言いました。



私は


また明日来るから
また明日来るからね



そう答えることしかできませんでした。






自分が素っ気ない返事をしたせいで
父を追い込んでしまった

そんな負い目があったから
私は父に
何も声をかけてあげられなかったんです。



あの日は
父と過ごしてあげなければ
いけなかった日だったのかもしれません。


父の孤独と絶望から
私は逃げてしまったんです。


どうしてあの時
もっと優しくしてあげられなかったのか。







翌日から父は
塞ぎ込んでしまいました。



唯一頼りにしていた私に
見捨てられたような
絶望だったのかもしれません。



父を追い込んでしまったのは
私だったのかもしれません。




私も頑張れるだけ頑張ってきた…
やれるだけやってきた…

私はそう言い訳をして
自分を正当化してたに過ぎないのか…


本当はもっと頑張れたんじゃないのか?

父から逃げたんじゃないのか?


何よりも残酷なことを
してしまったのではないか?





そんなことない、
できることは頑張ってやったよ…

あの時の自分を責めちゃダメだよ…





私の中に
ずっと二人の私がいます。


自分を責める私、
自分を守る私。




お父さん、
こんな娘でごめんね。







あの日のことは
思い出すことが辛すぎて
なかなかここにも書くことができませんでした。




でも これが
あの日起こった真実です。

逃げては行けない、
受け止めなければいけない真実。



私は
「病気の父親を想う
    優しく良くできた娘」 
にはなれなかった。



父を支えないと…というプレッシャーと
その疲労に負けてしまった
弱い人間でした。




このブログには
自分のその時その時の素直な気持ちを
書いてきました。


年末にかいていた
父のお世話ができることが
幸せだと感じていたこと。


それも嘘ではありません。


本当に幸せで
かけがえのない時間でした。




その影で
少しずつ少しずつ

不安と
プレッシャーと
疲労が

私を追い込んでいきました。






父が見せた涙。
父を泣かせてしまったあの日。

その一週間後に
父はこの世を去ってしまいました。



あの日、危篤になってしまった父に
何度も何度も謝りました。

応答のない父へ
何度も謝りました。






ありがとう
の言葉だけを送りたかった。


でも
ありがとうと同じくらい
ごめんねの気持ちで今もいっぱいです。




今でも夜、眠る前に思い出すのは
あの日の父の泣く姿。




お父さん、ごめんね。
辛かったのはお父さんなのにね。




どうしてあの時もっと
頑張れなかったんだろう…



どんなに後悔しても
どんなに謝っても
もう父には届かないけど


あの父の姿を
私は忘れてはいけない。



そう思っています。