父とのことを
思い出して書いています。



父がなくなる10日前、

2018.12.27に
父は個室へ移りました。



足の浮腫と
倦怠感で起き上がることがやっとだった父。


それでも
トイレにだけは
自分の足で歩いていきたいという
父の強い意志がありました。



浮腫でパンパンに腫れた足では
歩くこともおぼつかない状態だったので

私が病院にいるときは
トイレの前まで横についていこうとしましたが

大丈夫だから来ないで
と父は拒みました。




大部屋のときから
看護師さんにも
何かあっては大変なので
トイレのときはナースコールしてほしいと
何度も言われていたのですが

父はなかなかそれを受け入れられず
いつも自分でゆっくり歩いて
行ってしまいました。




個室になり、
部屋のトイレを利用できるようになると

看護師さんも
いつ父がトイレへ行っているのか
把握することが難しいし

転倒したり、何かあっても
個室だと気づけないこともあるので

ご家族がいないときには
必ずナースコールしてくださいね と
言われていたにもかかわらず


父はそれをすることなく
自分でトイレに行ってしまいました。





もともと人見知りで
誰かに頼ることが苦手だった父。


看護師さん達に
心を開くことがなかなかできなかったのかな
と思います。


父の中では
まだ一人で大丈夫、

自分でできることは
自分でさせてくれ
と思っていたのだと思います。



担当してくれていた看護師さんは
みなさんとても優しく素敵な方でした。


毎日親身に接してくれたおかげで
父も少しずつ看護師さんへ
心を開くことができてきたようで

個室へ移って少しすると
トイレのナースコールをするようになりました。



心を開くことができてきたのか、

それとも
体力的に限界を感じてきたからなのか
本当のところはわかりませんが、

父がナースコールをしてくれるようになって
ホッとしたことを覚えています。





個室に移ってからは
父とゆっくり過ごすことができました。


話をすることが辛くなっていたので
多く話すことはなかったし

眠っている時間が長くなっていたけれど


時間が許す限り
父のベッドの横にあるソファに座り
父の吐息を聞いていることが

あの頃の私の落ち着く場所でした。



足の浮腫が少しでもよくなるようにと
保湿クリームを塗って
マッサージしたこと、


父の着替えを手伝ったこと、


この頃父は食欲がなく
ほとんど
何も口にすることがなくなっていましたが、

これだったら食べられるかな?
これだったら飲めるかな?と
会いに行く度に持っていっていた
ヨーグルトやゼリー、
果汁ジュース等が入っていた冷蔵庫。


翌日会いに行ったときに
冷蔵庫の中のヨーグルトが
半分食べかけになっていたり、

果汁ジュースが
なくなっていたりするのを見て

少し食べられたみたいでよかった と
安心する日々でした。



この時すでに
食べること自体が苦痛だったはず。

それでも父は 生きるために
一生懸命頑張ってくれていました。



個室になってからの日々は
本当にかけがえのない時間でした。





年が明け、1/3。
その日は姉が面会に行っていました。


今日のお父さん、なんか違う。
全く話もしたがらないし、
塞ぎ込んじゃってる…



姉から連絡が入りました。



その前日、1/2は
私が面会から帰るときに
初めて父が私の前で
声を上げて泣いた日でした。


お父さん…
どうしたんだろう…


翌日1/4に娘を連れて面会にいくと
やはり塞ぎ込んでしまっている父が
ベッドで横たわっていました。


話しかけても
話したくないと言わんばかりに手を振る。


お父さん、どうしたの?
今日は話したくないの?と聞くと

目を開けることなくうなずきました。


どこか苛立っているような
そんな空気が伝わってきましたが、

どうしてこうなってしまったのか
本当のところは
父が亡くなった今も わからないでいます。


穏やかに過ごしていた年末が嘘のように
辛くピリピリした空間になっていました。



とりあえず、何をどうしていいかわからず
娘と私はソファに腰掛けました。



少しすると父は
もう、帰っていいよ と言いました。

面会に来てから
まだ10分も経っていないのに。



今日はどうしたの?
一人がいいの?

と聞いても目をつぶり首を振る父。


話したくないの?と聞くと
父は頷きました。


どうしてなんだろう…と思いつつも
今日はこのままここにいても
どうすることもできなそうだから
帰ったほうがいいのかな…と思い

娘と帰る支度を始めると、



父が

自分のスマホを開いてみてくれ 
と言ってきました。


言われるがまま
父のスマホを開き、

父の言うとおりに操作をすると

父と 父の友人との
メールのやりとりの画面になりました。



やりとりの日にちは12/28。
個室に移った翌日でした。


メールの内容は
父の友人から来たメールから始まっていました。

(この父の友人も少し前に大腸がんを患い、
病と闘っていました。)



友人)

今日、検査に行ってきました。
私達は異体同心、私も負けない。
だから貴方も負けるな。



同じように病気と闘う友人からの
精一杯の励ましのメールでした。

ご自身もお辛い中、
父にエールを届けてくださったご友人には
本当に感謝しています。




そして
友人からのメールに父は
こう返信していました。



父)

昨日個室に移りました
はやく楽になりたい



個室に移った頃の父は
もうスマホを見る余裕もないほどだったので
父が返信できていたことに驚きました。


そして、
はやく楽になりたい…


父のその言葉が
私の胸に突き刺さりました。



なぜ父があの時
そのメールの会話を
私に見せたかったのか。


こんな形でしか
私に伝えることができなかったのか。



塞ぎ込んでいる中、
見せてきたこのメール。



私は何も言えませんでした。




生きるために頑張ってきた父の中で
何かが壊れてしまったのだと思いました。





今思えば
あの状況まで心を強く持って
頑張っていてくれたこと自体が
すごいことだったと思います。


余命を宣告され、
日に日に衰弱していき、
尿管がつながれ
自力でトイレに行くこともできなくなった。



父が本当の意味で
自分の死と向き合うしかなかった
時期だったのかもしれません。


結局私は
父の本当の辛さに
向き合ってあげられていなったのかもしれません。







私がスマホを閉じると

見てくれたならそれでいい、
もう帰っていいから
と父は言いました。







私は私なりに
一生懸命やってきたつもりでしたが、
本当の父の苦しみを
受け止めてあげることはできませんでした。




穏やかな父との時間から一転、


塞ぎ込んでしまった父、
そして あの父のメールの返信が
私の心に強く残ってしまい、


このあと2日間、
私は父に会いに行くことが
できなくなってしまいました。


父に会うことが
恐くなってしまった自分がいました。


父との残された時間が
もうわずかだとわかっていたのに。



あの2日間、
父は病室のベッドで
何を思い過ごしていたのか。



あの2日間は
必要な時間だったと思う自分もいます。

でも
父から逃げてしまった時間でもありました。



支え方に
正解はないのかもしれません。


でもやはり
後悔は消えません。






悔やむ気持ちを
消すことはできないけれど

その気持ちと一緒に
うまく付き合っていかないと…と思い
半年が経ってしまいました。




あの時のことは辛い記憶だけど
それでも父と過ごした貴重な時間なので

こうして思い出しながら
ブログに綴っていると

不思議と
心が少しだけ楽になります。