◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

一条兼良は「大嘗祭の祭神は皇祖天照大神」と主張していない

(令和4年12月18日、日曜日)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

真弓常忠・皇學館大学名誉教授(故人)は著書の『大嘗祭』で、大嘗祭の大嘗宮の儀で祀られる神について諸説あることを解説し、その筆頭に天照大神説を掲げている。その根拠とされているのが、室町時代の公卿で、古今の有職故実に通じた不世出の古典学者・一条兼良の「代始和抄」であった。

 

兼良といえば、青年期に将軍から「白馬の節会はなぜアオウマノセチエと読むのか?」と訊ねられ、古典を引用して、たちどころに解答し、感心されたという逸話が残るほど、博覧強記の才人である。「代始和抄」は即位大嘗祭の解説書である。

 

当ブログは、令和の御代替わりのおり、これを何度か取り上げたのだが、泣く子も黙る兼良の解説書が「大嘗祭の祭神=天照大神」説の根拠となっているとあっては、これはあらためて読み返し、確認するしかない。

 

結論からいえば、「天照大神」説は資料の誤読ではないだろうか? 天照大神一神教に固まる研究者たちが兼良の神通力にあやかり、いわば虎の威を借りて、自説を主張しているのではないかとさえ疑われる。

 

▷「代始和抄」に祭神論はない

 

「代始和抄」の写しが国会図書館のデジタルコレクションに納められている。もともとは宮内大臣・渡辺千秋の蔵書だったものらしい。90ページほどに、御譲位、御即位、御禊行幸、大嘗会の4項目について、分かりやすく説明している。

 

大嘗宮の儀については、「大嘗会のこと」の後半に登場する。「中の丑の日」に「舞姫参入帳台の試し」が行われるとの説明に続き、「卯の日」の大嘗宮の儀に関する用語が説明される。そして廻立殿、膳殿、嘗殿などが簡単に説明されたあと、真弓先生も引用された一文が続いている。

 

「まさしく天照おほん神をおろし奉りて、天子みづから神食をすすめ申さるることなれば、一代一度の重事これにすぐべからず」

 

これをどう解釈すれば良いのかだが、真弓先生の著書には何の説明もない。

 

兼良は、皇祖天照大神をお迎えし、天皇が手づから供饌されるのだから、一世一度の重儀だと述べているのであって、祭神論を展開しているわけではない。天皇の祭りなら、皇祖を祀ることはいうまでもないが、皇祖のみが祀られるという根拠とすべきかどうか。大嘗祭の神は天照大神がすべてなのかどうか?

 

▷天照大神祭神論には無理がある

 

兼良はこのくだりで、「重事たるによりて、委しく記すに及ばず」「口伝さまざまなれば、たやすく書きのすることあたはず」と克明な説明を意識的に避けている。実際、祭神論のほか、供饌の儀も、御告文も、神饌御親供も、具体的な説明はない。博識の兼良にして、文章化していない事実があるということだ。

 

つまり、兼良の上記の一文をもって、皇祖天照大神のみを祀るという祭神論の根拠とすることには無理があるのではないか? だからこそ、真弓先生は、説を紹介するのみで、考察を加えなかったのだろう。

 

真弓先生はそのあと天皇の御告文(申し詞)に「天照大神、又天神地祇諸神明」(後鳥羽院宸記)とあることを根拠に、「天照大神はじめ天神地祇」を大嘗宮の祭神とする説は「そのまま肯定できる」と素直に認めているが、これは客観的事実に基づくストレートな解釈で、まったくその通りだと同意できる。

 

逆に、新帝が「伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく」と奏上される事実が分かっていながら、祭神は天照大神だけと研究者たちが言い張る理由が私には分からない。

 

何度も繰り返し書いてきたように、天照大神のみを祀るのなら、大嘗祭の大嘗宮も新嘗祭の神嘉殿も不要だろう。祭場は皇祖を祀る賢所で十分である。現に皇族方のなかには、大嘗宮不要論さえあるが、研究者たちの天照大神祭神論に引きづられた結果ではないか? 天神地祇を祀るのなら、賢所での大嘗祭はあり得ないし、あってはならない。

 

▷隠されているもうひとつの論理

 

大嘗祭は天孫降臨神話を根拠に、斎庭の稲穂の神勅に基づいて厳修されると理解するのは一見、論理的であり、したがって大嘗祭の祭神=天照大神論とすることも演繹的にリーズナブルである。

 

しかしながら、それだけなら、新帝が米のほかに粟の新穀を供して、神人共食する必要はない。そんなことは少し考えれば分かることで、だから天照大神論者は「粟」を無視しようとするのだろう。理解の外にある事実は捻じ曲げられ、消去される。

 

大嘗祭には天孫降臨神話とは異なる、もうひとつ別の論理が隠されている。田中初夫・東京家政学院短大教授が『践祚大嘗祭 研究篇』で指摘しているように、古代律令「神祇令」の「即位の条」に、「およそ天皇、位に即きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記されているのがそれであろう。

 

天皇には皇祖神の子孫というお立場だけでなく、国と民をひとつに統合するスメラミコトという機能がある。ならば、天神地祇を祭らなければならない。真弓先生が平野孝国を引用し、「あらゆる神を祀って頂く御資格」に言及されているのがそれである。

 

だから、天皇の祝詞は「天照大神、また天神地祇、諸神明に」となり、神饌は米のみならず粟も捧げられるのではないか? 研究者たちがいつまで経っても、天孫降臨・稲穂の神勅にばかりこだわり、大嘗祭の神=皇祖天照大神論に固執しているのは、知的怠慢、思考停止以外のなにものでもない。兼良を誤読し、引用するなど、もってのほかであろう。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

大嘗祭・新嘗祭に祀られる神──真弓常忠「大嘗祭」論から考える

(令和4年12月11日、日曜日)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

令和の御代替わりのおり、國學院大學博物館で企画展が行われた。展示は「米」だけでなく、「粟」も含まれ、さすがは國學院だと感心した。「稲の祭り」論で凝り固まる人たちとはちょっと違う。

 

ただ、このとき行われていたミニ講演会の中身はいただけなかった。若い研究者は、大嘗祭は天皇が皇祖天照大神を祀ると断言していた。画竜点睛を欠くとはこのことである。

 

なぜそう理解するのか、私にはまったく理解できなかった。「皇祖を祀る」のなら、なぜ「米と粟」を捧げなければならないのか、なぜ「粟」なのか、説明が十分でない。

 

▷祝詞と神座

 

このところ繰り返し学んでいる真弓常忠・皇學館大学名誉教授(故人)の『大嘗祭』を読んで、少しは納得できた。神道学者はそもそも「粟」を無視している。

 

真弓先生は著書のなかで、大嘗祭の本質を考えるためには、大嘗宮の儀にどのような神が祭られていたかを考察する必要があるとしたうえで、以下の4説があったことを紹介している。

 

1、皇祖天照大神とする説

 

一条兼良『代始和抄』には、「まさしく天照おほん神をおろし奉りて…」とある。

 

2、天照大神はじめ天神地祇とする説

 

『後鳥羽院宸記』に大嘗祭の御告文(祝詞)が引用され、「天照大神、又天神地祇諸神明」とある。以後もおおむね同様。

 

3、悠紀・主基それぞれ別の神とする説

 

たとえば、悠紀は天神、主基は地祇を祀るなどの説があったが、三浦周行は平安期の資料の対句表現を誤認した結果と批判している。つまり、悠紀・主基とも同じ神と考えられるが、それなら如何なる神かと真弓先生は畳みかける。

 

真弓先生は、2説は現に祝詞に「天照大神および天神地祇」とあるのだから、そのまま肯定できるとし、そのうえで後鳥羽院以前、太古以来、そうだったのかと問いかけている。『令義解』が撰された天長年間には「天神地祇を祭る」とする観念があったと見なければならないけれども、大嘗宮の神座は一座のみで、それでいて神食薦に供えられる枚手は10枚あるのをどう理解すべきか、というのである。

 

そして、大嘗祭・新嘗祭の当日の朝に、304座の神々に幣帛を奉る由縁を述べる祝詞に、「皇御孫命の大嘗聞こしめさむための故」と目的が明示されていることから、「新穀を至尊に供する」ために「諸神の相嘗祭」が行われるものと解釈できると真弓先生は説明している。

 

▷皇祖が主神で、天神地祇が相嘗する

 

4、御膳八神を祭るとする説

 

御膳八神は、悠紀田・主基田の側などに祭られる神である。だが、真弓先生は、神饌の準備過程で祭られる神であって、大嘗宮に祭られる神とは考えられないと批判している。

 

そのうえで、真弓先生は、平野孝国の「天皇には全国の神々をお祀りになる特別の御資格有り」とし、「天皇にあらゆる神を祀って頂く御資格をお与えする唯一の機会は、大嘗祭を除いてはありえぬ」とする理解を紹介し、「現に『天照大神、又天神地祇』に祝詞を白されているのであるから、天照大神をはじめ、天神地祇に神膳を献るものとするのが妥当であろう」と一応、結論づけている。

 

要するに、祝詞と神座という客観的事実から、真弓先生は、大嘗祭・新嘗祭の祭神は、主神が皇祖天照大神であり、天神地祇が相嘗をすると理解するらしい。日本民族=稲作民族論、天照大神一神教的神道論、大嘗祭・新嘗祭=「稲の祭り」論に立つならば、当然の帰結かと思われるが、神饌に「米と粟」が供される厳たる事実が相変わらず見落とされているということになる。

 

しかし真弓先生の祭神論はこれでは終わらない。「相嘗」とは何かを先生は探求し続けるのである。(つづく)

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

真弓常忠「大嘗祭」論が誤認する「新嘗祭の本義」

(令和4年12月7日、水曜日)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

前回にひき続き、真弓常忠・皇學館大学名誉教授(故人)の『大嘗祭』を読みつつ、あらためて大嘗祭・新嘗祭の本義について考えたい。

 

というのも、真弓先生は、じつに興味深いことに、星野輝興・元掌典の『日本の祭祀』を引用し、「新嘗祭は収穫感謝ではなく、『皇祖より御おもの』をいただかれることを主にした祭り」と説明しているからである。

 

つまり、神社検定公式テキストの「(新嘗祭は)神恩を感謝」は不正確で、宮内庁などの「(大嘗祭は)安寧と五穀豊穣などを感謝される」(『平成大礼記録』)とする説明も誤りだということになる。むろん「勤労感謝の日」でもない。

 

▷稲オンリーの大嘗祭・新嘗祭論

 

真弓先生は星野元掌典を引用したあと、さらに「祝詞式」を引き、「大嘗聞こしめす」ことが新嘗祭・大嘗祭の「眼目」だと指摘している。神饌に着目するのは、神道学者としての面目躍如たるものがある。

 

このほか、真弓先生は新嘗祭について、「天皇が『日の御子』としての実質を体現する儀であった」とし、「大嘗祭は、天皇が瑞穂の国の国魂を体現せられ、ニニギノミコトという稲の実りを象徴する存在となられる意を持つ儀礼」と解説する。

 

要するに、真弓先生の発想では、記紀神話に、皇祖の物語として天孫降臨神話が記され、稲作起源神話としての斎庭の稲穂の神勅がある。これを現代において、繰り返し再現するのが新嘗祭・大嘗祭だということになる。

 

先生はなぜそのようにお考えになるのか?

 

なるほど、神社の祭りには創建の物語を毎年、繰り返し再現するものがある。たとえば、伊勢の神宮の神嘗祭も、大津・日吉大社の山王祭も、創建の物語と密接不可分である。けれども、皇室第一の重儀も同様の理解で十分なのか、そこが問われている。

 

そもそも真弓先生は「粟」を完全に無視している。記紀神話は皇祖・天照大神の物語がすべてではないし、記紀は稲作オンリーではない。逆に、真弓先生は「粟」が見えないから、神社祭祀と同列に、稲オンリーの新嘗祭・大嘗祭論を展開することになるのではないか?

 

真弓先生にとっての「大嘗」は米オンリーらしい。「米と粟の祭り」の基本的事実を誤認するなら、正しい結論は得られまい。

 

ちなみに、以前書いたように、日吉大社の山王祭は「粟」である。その昔、土地の漁師が大神に粟飯を差し上げ、いたく喜ばれたという物語がその起源とされる。「粟」は各地の神社に伝わっているが、神道学者には見えないのだろうか?

 

▷なぜ国家儀礼となり得るのか

 

もうひとつの論点は、古代の物語の再現がなぜ国家的儀礼となり得るのかだが、真弓先生は、「宮中祭儀は我が国の民族信仰に基づく民族儀礼であって、日本国家の成立とともに国家儀礼となってきた」と説明するだけである。「国家」だから「国家」儀礼だというのでは説明にならないのではないか?

 

たとえば神社の祭りのように、稲作民や畑作民の共同体の祭りが「稲の祭り」あるいは「粟の祭り」であるとして、共同体の祭祀の意義を説明するのなら、この説明で十分かも知れないけれど、天皇による国家的な「米と粟の祭り」はこれでは説明にはならない。

 

真弓先生は一方で、「神宮や神社の祭祀、神道行事はそれ(宮中祭儀)に倣って祭式を制度化したもの」と解説するけれども、これもあり得ないだろう。神社の祭りなら、天神地祇をまつり、米と粟を同時に捧げたりはしない。

 

つまり、真弓先生は、日本民族=稲作民族だと固く信じ込んでいる。だから、「粟」が見えない。日本民族のルーツはけっしてひとつではなく、記紀神話にその歴史が記録され、宮中祭祀にはその歴史が反映されていることに気付かない。神社祭祀と宮中祭祀の基本的違いが理解されていない。

 

まず稲作民や畑作民がそれぞれいて、それぞれに稲の神、畑の神が祀られ、それぞれに稲の祭り、粟の祭りがあって、これらを高い次元でひとつにまとめ上げる天皇=スメラミコトによる、皇祖神ほか天神地祇をまつる、「米と粟の祭り」がある。だからこそ天皇の祭儀は国家儀礼となるということが理解されないのではないか?

 

真弓先生は「粟」が見えない。「粟の神」の存在に気づかない。「粟の民」による「粟の祭り」を知らない。だから、天皇の国家儀礼が説明できないのであろう。