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記紀神話から読み解く大嘗祭論の限界

(令和4年12月31日、土曜日)

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大嘗祭の「粟の御飯(おんいい)」を再現する実験を繰り返し、真弓常忠・皇學館大学名誉教授の『大嘗祭』をテキストにしつつ、「米と粟」が捧げられる意味について考えてきた。

 

今日は大晦日なので、ここでひと区切りとしたい。

 

真弓先生の大嘗祭論は、事実に基づいて考察しようとしている。祝詞の文面、古典の記述を客観的に踏まえようとしている。しかしもっぱら「米」にばかり捉われ、大嘗祭、新嘗祭で「粟」が供される事実が見落とされている。

 

事実に基づいて考えようとしながら、結局のところ、事実の部分的つまみ食いとなり、そのため「米」中心の一面的な大嘗祭論を展開する結果を招いている。つくづく残念だ。

 

▷天孫降臨神話には異伝がある

 

真弓先生の関心は、大嘗宮の神座に祭られる神はどなたなのか、に移る。そして記紀神話に注目する。

 

先生の理解では、「大嘗宮の祭神は、天照大神および天神地祇と解」されるが、これは「神食薦に神膳を供薦する対象となる神々」であって、中央の神座に座す神ではないとされている。「大嘗宮の神座は中央に唯の一座であり、…神膳薦に盛り供えられる枚手の数は十枚である」のをどう考えるのか、が先生の関心事である。

 

先生は、戦前は海軍教授、戦後は大谷大学教授、同志社大学教授、仏教大学教授などを歴任した神話学者・三品彰英氏の学説を紹介している。すなわち、「天孫降臨神話には諸異伝があり、稲米収穫儀礼から大嘗祭に発達する段階に応じて祭神が変化し、それが神話では降臨を司令する神として投影している」というのである。

 

記紀の天孫降臨、斎庭の稲穂の神勅のくだりを読むと、なるほど「神話にはいくつかの異伝がある」ことが分かる。三品先生はこれを一覧表にまとめているのだが、天孫降臨が天照大神一神によって司令されたと書かれているのは、書紀の「第一の一書」だけで、異伝によっては、降臨を司令する神は天照大神とは限らないし、降臨する神もニニギノミコトとは限らない。授与される神器も、神勅も一様ではない。

 

これについて三品先生は、神話形成の過程を想定し、「大嘗宮の主神が天照大神とされるにいたった時点を反映している」としたうえで、「もっとも完成された段階は、『日本書紀』の第一の一書に降臨を司令する神を天照大神一神としていることによって窺えるように、天照大神が大嘗宮の主神となったと考えられ、その時期はこの所伝の成立した天武天皇の頃であろう」とする説を提示している。

 

▷記紀に描かれた2つの稲作起源神話

 

以前、神社界の専門紙に連載していたとき、大林太良・東大教授(神話学、民族学)の研究を紹介しつつ、記紀神話には稲作起源を説明する物語として、死体化生神話と天降り神話のふたつが描かれていることについて書いたことがある。

 

たとえば『古事記』では、高天原を追放された須佐之男命が出雲国の肥河の川上に下られる途中、食物を大気津比売神に乞う。女神は鼻や口や尻からさまざまなご馳走を出して奉った。しかし須佐之男命はこれを汚いと嫌い、殺害する。すると死体の頭部に蚕、両目に稲穂、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生った。神産巣日御祖命はこれを五穀の種とした、と記述されている。

 

「死体化生型神話」と呼ばれる類型の物語だが、興味深いことに、『日本書紀』の本文にはない。

 

もうひとつの稲作起源神話は三大神勅の1つである、斎庭の稲穂の神勅の物語で、『日本書紀』の天孫降臨の場面に登場するのだが、本文にはない。

 

一書の二によれば、天照大神は天忍穂耳尊の降臨に際して、手に宝鏡を持ち、これを天忍穂耳尊に授けられて「同床共殿して斎鏡とせよ」と語られる。いわゆる宝鏡奉斎の神勅である。そして大神は「わが高天原にある斎庭の穂をわが子に与えよ」と斎庭の稲穂の神勅を勅される。

 

真弓先生が指摘する通り、天照大神一神で瓊瓊杵尊を降臨させたとするのは『日本書紀』の一書一のみである。高皇産霊尊一神が降臨を指令している所伝さえある。天孫降臨神話全体のなかで、意外にも天照大神の影は薄く、このため、高天原神話の主神は高皇産霊尊であり、高皇産霊尊の神話と天照大神の神話とは本来、系統が異なる、とする説さえある。

 

▷ヨーロッパにまで連なる起源と系譜

 

斎庭の稲穂の神勅が興味深いのは、天孫降臨とともに語られていることである。神の死体から得られた作物が葦原中国に起源するのに対して、この物語では高天原から稲がもたらされる。大林先生によると、天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという神話は朝鮮半島から内陸アジアに広く分布するという。

 

それどころか、遠くギリシア神話とも類似する。インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林先生は解説する。ただ、母神が授けるのは、日本神話以外は麦であって、稲ではない。

 

つまり、天照大神から稲穂が授けられるとする要素は、高皇産霊尊を中心とする天孫降臨神話と元来は無関係で、東南アジアの稲作文化に連なる、と大林先生は説明している。朝鮮半島から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する高皇産霊尊の天降り神話と東南アジアに連なる天照大神の稲の神話が接触・融合して、天孫神話ができあがった、と大林先生は推理している。

 

ということは、天皇の祭りが南北アジアどころか、遠くヨーロッパに連なる起源と系譜のうえに続いてきたということになるだろう。

 

真弓先生は事実とは申せ、もっぱら記紀神話の記述に注目している。参考とした三品先生の研究は、考古学に民俗学や文化人類学など周辺の学の視点を採り入れ、深められたが、たとえば大林先生のような比較的新しい研究成果に学んだとしたら、もっと別の展開があり得たのではなかろうかと残念に思う。

 

▷「米と粟の祭り」から「稲の祭り」へ

 

真弓先生の大嘗祭論では、キーワードは稲、米、天照大神である。しかし先生が依拠する記紀神話の天孫降臨神話では、よく読めば天照大神の存在感は薄い。女神殺害の物語は五穀発生の物語であり、稲ではない。死体化生型神話が分布する東南アジアは焼畑農耕文化圏であり、たとえば台湾先住民パイワン族がそうであるように、粟食が一般化し、稲作が忌避されていることもある。

 

本来、天皇の社とされる伊勢の神宮では、1年365日、稲の祭りが行われ、最大の祭りとされる神嘗祭はその昔、倭姫命が御巡幸の折、鶴がくわえていた霊稲を大神に奉ったのが始まりとされているが、こうした鳥が稲穂をもたらしたとする「穂落神」の伝承は、焼畑農耕、粟栽培と結びつき、東南アジアで比較的よく保存されているという。不思議なことに、記紀には登場しない。

 

真弓先生の研究では、稲は稲としか表現されていないが、作物学の立場からいえば、陸稲もあれば水稲もある。天孫が稲穂を携えて山上に降られるという物語は、水稲ではなく、むしろ陸稲を想像させる。神話が伝わる高千穂は山そのものである。神宮のお田植え祭には東南アジアの焼畑農耕文化との共通性さえ指摘されている。

 

とした場合に、稲、米、天照大神で読み解こうとする真弓先生の大嘗祭論にはおのずと限界があると思わざるを得ない。換言すれば、「米と粟の祭り」であった大嘗祭がある時点で、「米の祭り」に解釈が変わったのかも知れない。そうであったとして、天皇は「米と粟」を捧げ続けている。実態は「米と粟」であり続けているのである。

 

では、良いお年を。

 

 

 

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粟餅を食べたら、ふたたび疑問が湧いてきた

(令和4年12月26日、月曜日)

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年内最後の実験を試みた。

 

国産のもち粟を使用し、12時間吸水させたのち、今回はお茶の粉末を入れ、よくかき混ぜて、炊飯器の白米おこわモードで炊いた。炊き上がったら、すりこぎで餅につき、半分はそのまま丸め、残りは粒あんをつき入れてから丸めた。

 

画像の手前が前者で、奥が後者である。粒あんをつき入れたのは、神武東征のおりに作られたという「つき入れ餅」の故事を思い出したからである。にわかに船出することになり、あんころ餅をこしらえる時間的余裕がないため、いっしょにつき入れたという物語になっている。

 

▷なぜ粟餅にしないのか?

 

粟餅はわりと簡単に調理できて、なかなか美味しく出来上がった。ということで、あらためて疑問が湧いてきた。大嘗祭・新嘗祭に「米と粟」を神前に捧げるのに際して、米が強飯であるのはまだしも、粟をなぜ粟餅のかたちで供しないのか、ということである。

 

原則論からいえば、神饌というのは、血縁共同体もしくは地域共同体の主食が、神から与えられた命の糧として、もっとも美味しく食される形態で、供饌されるべきもののはずである。とするならば、粟は、台湾先住民パイワン族の粟の祭祀がそうであるように、粟餅として供されるべきものではなかろうか?

 

ところが、現実には、少なくとも今日では、宮中新嘗祭も大嘗祭も、竹折箸では扱いにくいにもかかわらず、蒸したままの御飯(おんいい)が大前に捧げられている。なぜなのか?

 

歴史的に考えると、『常陸国風土記』は粟の新嘗が古代、民間に存在したことを記録している。この粟の新嘗は、台湾先住民と同様に、粟の神に粟餅を捧げる儀礼であったろうことは十分に推測できる。同時に、粟の酒も供せられたのではなかろうか?

 

▷いつ、なぜ変わったのか?

 

天皇の祭祀が、粟の民と米の民とを統合する象徴的儀礼だとするなら、粟の餅と米の御飯、粟の酒と米の酒を神前に供することが元々の原型だったのではないかと私は想像する。

 

それがいつの日か、米も粟も蒸した御飯に調理法が統一され、酒は米だけを使用した白酒・黒酒に変わったのではないか? いつ、なぜ、そのように変えられたのか?

 

神饌調理の重大な変革は、宮中祭祀の根底を貫いているらしい陰陽五行思想によってもたらされたのか。それとも、天照大神を至高の神と仰ぐ一神教的な考え方によって、稲の儀礼として統一されていったということなのか?

 

答えを探るために、もう一度、真弓常忠・皇學館大学名誉教授の著書を読み込むことにしたい。ヒントが隠されているように思うからだ。(つづく)

 

 

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大嘗祭の「相嘗」の意味──真弓常忠「大嘗祭」論から考える

(令和4年12月20日、火曜日)

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さきごろサッカーW杯が行われたカタールは人口250万人の9割が移民である。カタール国籍保持者のほとんどがスンニ派のムスリムで、イスラムが国教なのに、全人口で見るとムスリムの割合は7割を切る。非ムスリムのほとんどはキリスト教徒とヒンドゥーという。批判されている移民労働者の人権問題などには、宗教的な背景が見え隠れしている。

 

日本ではこの宗教的差別ということがなかなか分かりづらい。それは古来、天皇が天照大神ほか天神地祇を祀り、祈りを捧げてきたことと無縁ではないと思う。天皇は祭り主であると同時に、仏教の外護者であり、近代以降はキリスト教の社会事業を物心共に支援し続けてこられた。

 

▽誰と誰が「相嘗」するのか?

 

一視同仁。天皇にとっては、伝統的宗教を信ずるものであれ、舶来の宗教を信ずるものであれ、みな赤子なのである。その精神こそが日本の社会的秩序を平和に保ってきたのだと思う。そして、その精神を実践してきたのが天皇の祭りなのだと思う。天皇の祭りは、葦津珍彦が説いたように、国民統合の国家的儀礼なのだと思う。

 

しかし、神道学の研究者たちは、どういうわけか、そうは考えないらしい。

 

先日、取り上げたように、真弓常忠・皇学館大名誉教授が著書のなかで、大嘗宮の儀での「相嘗」について書いている。その内容はたいへん興味深い。

 

真弓先生は、天皇が「天照大神、又天神地祇」に祝詞を白されるのだから、天皇は天照大神ほか天神地祇に供饌されると解釈するのが妥当だと、事実に基づいて指摘したうえで、これを古典に「諸神の相嘗祭」(神祇令の義解)とも「皇神等相宇豆乃比奉り」(祝詞式)とも記述されていることの意味を問いかけている。

 

つまり、大嘗宮の儀で、天皇が供した新穀を、誰と誰が「相嘗」するのか、そのことが如何なる意義を持つのか、である。

 

▽真弓先生の限界

 

真弓先生は、国語学者の西宮一民・元皇學館大学学長との討論を重ねたうえでの結論として、以下のような見解を述べている。

 

「天皇が皇祖天照大神より賜った新穀を聞こしめすにあたって、まず諸神に献り、天照大神より賜った新穀にこもる霊質を、諸神との共食によって相互に補強せられるものと解するのである。つまり、相嘗とは、神と人と相互に『嘗』することにより、神々も天照大神の霊質をうけ、これを『嘗』する人もまた、大御神の霊質とともに相嘗の神々の霊質を以て補強するものと解するのである。かくして、天神地祇に奉られることは、神々の神性をも強化更新されるとともに、これを親らも『嘗』されて、天皇としての霊質を一層強化されるものである」

 

きわめて宗教的な説明でいささか分かりにくいが、要するに、「相嘗」とは天照大神と天皇との共食、諸神と天皇との共食であり、それは新穀にこもる霊力を神々も天皇もうけ、強化・更新することであり、それが「相嘗」の意味だということなのだろう。

 

真弓先生は、大嘗宮の儀で祭られる神は「天照大神、又天神地祇」と認めている。しかし、一方で、神事で捧げられるのは「稲」と考えている。であればこそ、これが限界なのだと思う。真弓先生の「相嘗」論には、見事に「粟」が抜けている。

 

▷「米と粟」を「相嘗」する意味

 

大嘗宮の儀で「米と粟の御飯(おんいい)」が捧げられることは疑いのない事実である。それなら、真弓先生の「相嘗」論では「粟」はどう説明されるのか、説明できるのか?

 

斎庭の稲穂の神勅によって、天照大神から賜った稲の新穀には、稲の霊力が備わっているとして、逆に、必ずしも「稲の神」ではない諸神が、なぜその「稲」を共食しなければならないのだろうか。なぜ「稲の霊力」を受けなければならないのか?

 

真弓先生の「相嘗」論は、「粟」は無かったことにしないと、とうてい成り立たない。「粟の神」は存在してはならないことになる。日本民族=稲作民族論、天照大神一神教の限界である。

 

たぶん古典に「諸神との相嘗祭」とあるのは、天照大神だけとの「相嘗」ではないことを強調しているのだと私は思う。真弓先生が説明するように、「天照大神、又天神地祇」と天皇との「相嘗」であることは当然だが、同時に「米と粟」を「相嘗」することにこそ祭儀の意義があるはずである。

 

真弓先生が説くような「稲の霊質」論では「米と粟の祭り」は説明できない。だから、勢い半ばオカルトチックな説明に傾くのだろう。稲作社会に根ざした宗教的儀礼という説明ではなく、「米と粟」による、一段と高い立場での国民統合の国家的儀礼であることに、なぜ気づけないものか?

 

▷日本だからこその諸宗教協力

 

余談だが、粟の祭りを行う台湾の先住民パイワン族は、稲作をタブーとしていたが、近代になり、稲作を行うようになったという。おそらく日本の統治が及ぶことになって、稲の神が受け入れられたのだろうと想像する。

 

バングラデシュの孤児院を支援するボランティア活動をしていたとき、チッタゴン周辺の孤児院の代表者たちを集めて、夕食会を開いたことがある。イスラム、ヒンドゥー、仏教と宗教はさまざまだが、そのため「同じ孤児院運営者として顔を合わせたこともない」という話に驚くと同時に、宗教的偏見のない日本人の可能性に気付かされたものだ。

 

今月に入り、世間はすっかりクリスマス・モードだが、弘前では昭和の時代から、カトリックとプロテスタントが協力し、「メサイヤ演奏会」が開催されてきた。旧教・新教の共催は世界的にみても珍しいと聞く。コロナの影響か、今年は行われないらしい。残念だ。

 

諸宗教の協力といえばWCRP(世界宗教者平和会議)の活動がある。日本という多神教的世界から生まれた団体は世界の平和を牽引している。その背景には間違いなく、天皇による天神地祇への「米と粟の祭り」があると私は思う。

 

カタールなど一神教の国ではあり得ない。熱心な信仰者ほど、むしろ違和感を覚えるのではないか? とすれば、天皇の「米と粟の祭り」について、もっと深く探究すべきだ。