「救い」とは何なのか

救いというのは、
ありのままの事実を認めることであるというのは、
どこかの説教で聞いたような気もするが、
実際、「救い」という語で何がしか御利益のようなものを
求める心性に対して、これは厳しく本当である。

人生の諸事、誰にも困難はあるけれども、
困難を事実とまず認めるのでなければ、
困難はいつまでも困難のままである。

困難を事実と認めてしまえば、
あとは努力するしかないのだから、
この努力することそれ自体が、困難からの救いと言えば、
まぁ救いなのである。

やっぱりすごく当たり前なのだが。

~池田晶子著「残酷人生論」より~




人間にとって「救い」とは「ご利益」である事は間違いない。
ただ別のベクトルから見ると「救い」は己の力であると・・・・・

自分を救うのは自分でしかない。
そういう事だろう。
まさしくその通りだ。

まぁ救いを大袈裟に考えれば厳しくなるが・・・・
私的には救ってくれるなら、どんな形でも、誰に救われようとも、

それでよい気がしないでもない(笑)


人は一人では生きていけない。
助け助けら、お互い様、お陰様で人間稼業を営む。

困難を事実と思うには、それに向き合う覚悟がいる。
その覚悟を持つのが中々難しい。

人は辛すぎると、無意識的に心を閉じる。
感じないように、見ないようにする。

それは自分を守るため、生きる為の、それこそがライフガードだ。
そのライフガードが自動的に作動しないと狂う事だってあるだろう。

狂えるのは生きているから、、、、狂えない人はそのままイノチを終わりにする。
この見ないようにする力はイノチを守る為の鍵。

私が思うに・・・・現代はそのライフガードが強すぎて、、、、、固まっているような感じでしょうか・・・・

うつむき、あの小さい画面を凝視する。
あの長方形の小さい画面の中に世界がある。

その世界を見ていれば、、、、、困難を直視しなくても済む。
考えなくて済む。
そして忘れるというとっても大切な機能も人間には備わっている。

困難と思えない
困難を事実と思えない
困難であると認めなくない
困難を忘れたい

そういう気持ちはよくわかる。
私は努力が大好きだ(^_^;)そして継続は力なりという言葉も大好き。

だけどこの世は努力だけでなんとかなるというものでもない。
努力をする事は大事だ、それを放棄してしまっては生きる意味がない。

楽をする為にイノチがあるわけではない。(と、私は思っている)
快楽を貪る為にこの身体があるわけではない。(と、私は思っている)

何を優先して、何を捨てるのか・・・・・
それを明確にして生きていく。
優先するものと、捨てるものを間違えると、それは困難という形で目の前に立ち現れる。

だけど自分のイノチ(本質)が優先するものを、優先したからと言って、楽しい嬉しい苦労のない人生が送れるという事ではない。
生きていると喜怒哀楽し紆余曲折はもちろんある。
それが生きるという事のはず。

しかもそれは自分自身にとって困難でも問題でもなく、エキサイティングな事象であり、エネルギーを昇華するためには必須なのだ。
ただただ目の前の事を実直に向き合うだけ。
それでイノチは充足していくんだと私は思うのです。


嫌な事はしない。。。
無理をしない。。。。
好きな事だけする・・・

そういう風潮な昨今のスピブーム

しかし、やっぱり楽する(楽しむ)ためには努力が必要だと私は思うのです。
楽する為には無理もするし、喜びのために嫌な事だってする。
なんでもOK!そういう姿勢が喜び喜ばれるイノチとなるのではないかと・・・・

言うが易し 行うが難し  ですけどね(^_^;)