わからないという経験
考えても見たい。
言葉を読んでわからないと感じるというこの経験は、じつはとても貴重な経験、貴重な瞬間なのではなかろうか。
我々、言葉を読んで何かをわかるという経験に慣れすぎている。
世の中、読んでわかる言葉だらけである。わからない言葉にぶつかって立ち止まる瞬間、人は、これまで考えたことのなかったことを考え始める入り口に立っているのかもしれないのである。
池田晶子著 「絶望を生きる哲学」より
現代社会の風潮が簡単、明解、わかりやすさが当たり前の社会になってきているので、「わからない言葉」「わからない説明」は大袈裟に言えば「不親切」で「悪」となる。
この池田晶子先生の上の文章はその事に対して警鐘を鳴らしているのだと想像する。
わかりやすい=親切
という風潮は人に考えさせなくなり、バカをたくさん作り出す。
私はわかりやすさが親切とは思わない。
コントールする1つの手法のように見えてしまうのです。
考える事をはく奪されると、今度は考える事が苦痛になってくる。
「考えないとわからない」事に対して、もっとわかりやすくしなさいよ!!と文句を言う人がいるのも現実だ。
例えば・・・・案内にわかりにく地図を掲載していると、こんなのわからないでしょ!!と怒って電話をしてくる人がいる。
住所から自分で調べてみる
と、いう発想にならないのだ。
グーグル先生がいるこんな時代でもだ・・・・
わからない言葉を読んで、わかろうとして考える。
この事が大事なんだと。
考えて考えて・・・・・わからなくてもいいわけです。
この考えるというプロセスが貴重な経験なんだと。。。。。
池田晶子先生が亡くなって10年が過ぎた。
この10年で池田晶子先生の想像を超えるIT技術の革新があった。
こんなになんでもわかる世界が来てしまい、池田晶子先生は天国でどんなコメントを出しているのだろうか・・・・(笑)
だれか死者の聲が聞ける人がいたら池田晶子先生に聞いて欲しい。
今どんな感じですぅ~??(^_^;)と。
さて・・・・現代、言葉だけでなく、ありとあらゆる事が簡単にわかる世界になった。
全知全能のグーグル先生が家庭教師のように、一人に【一人?】ついている状態が現代のありようです。
こんな世界が私の生きているうちに来るとは思いもしなかった。
1900年~2000年の100年間の技術進化スピードは歴史的に見ても革新的だったと思うのですが、2000年以降この20年のIT技術は超常的スピードで進化しているように感じるのです。
怖いくらいです。
老若男女誰しもが、体の一部のように1人に一台パソコンが標準装備となっている。
会社用、自分用と2台持ち、3台持ちの人も通勤電車の中では普通にいる。
それも地球規模で、そんな状況である。
後進国と言われいてるアフリカやアマゾンではPCやスマホなんてないだろうと想像するが、とんでもないらしい。
アフリカマサイ族、アマゾン原住民の一部では先進国に負けないほどのIT化が進んでいるそうだ。
アマゾン原生林の中でも、アフリカ砂漠の中でも携帯電話は通じるし、スマホも見る事ができる。
スマホ一つあれば、世界中の事が瞬時にわかる。
大袈裟ではなく、わからない事がないと言っても過言ではない。
SNSをやっていれば、それを読めば人の心だって、ある程度はわかる。
テレパシー能力がなくても、人の頭の中がわかってしまうわけだし、気になる人が今日どこに行き、何を食べているのかもわかってしまう。
地域に設置されているライブカメラをネットで見れば、その場所の天気、、混雑状況すべて自宅に居ながらにしてすぐにわかる。
都会では死角がないほど監視カメラが設置されているし、Nシステム(警察しか使えないが)があれば、どの周辺にいるのかがすぐにわかってしまう。
警察が足で犯人を捜す時代は終わり、コンピューターの前で犯人を捕まえる事ができる時代になったと、何かに書いてあった。
こうやって書いているだけで、薄ら寒さを覚える。
わからない
そういう体験ができなくなった。
なのに、皆わからないと言う。
何がわからないのか・・・・・わからない事がわからないというような禅問答になってしまうが、悩んでいる人は本当に多い。
日本は悩めるほどに暇で豊かなんだという説もあるが、豊かになってきているのか、貧しくなってきているのか。。。。。さてはてどうなんでしょうね。
ただ一つわかることは、わからないという事に対して、とっても恐れている。
極端に「わからない事」を忌み嫌い、排除しょうとする。
「なんでもわかる世界」の裏に「何もわからない世界」が隠れている。
わかる事でわからない事を見ないようにしているのかもしれませんね。
まぁ結論がある話ではないので、このあたりで終わりにしますが、、、、、今回は自分自身への戒めとして書いてみました。
死ぬまでちゃんと考えて人生を生き切りたいものです。