テレビを見ないと言う事を今年の抱負にして二ヶ月が経った。


全く見ないと言う事でもありませんが、極端にテレビを見る時間が減った


で、この二ヶ月で気がついた事があった。


自分の心がざわついている時ほどテレビをつけたくなるのです。

気を紛らわしたくなるのでしょうね。


自分の内面を見つめる事がキツイ時、感情とか思考とかに囚われている時にテレビをつけたくなる。


まぁだからと言って対して何かあったわけではありません。



人間家業の雑多なストレスの蓄積限度額が越えると、途端に心が落ち着かなくなり、ウルトラマンのようにタイマーがなり始めます。


生活しているとホント毎日色々な事がありますからね~


一人で生きているわけではありませんから、ほんと人間家業は大変です。


ストレス過多になって、心身の緊張が過度になってくると人はそれを発散させて、緊張をほどこうとする行為を無意識に行います。


過度な場合に身体的現象として自傷行為、爪噛み、毛髪抜き・・・私がよくしていた唇の皮むき、親指の皮むきがあります。


が、、、、そういう行為にまで至らない一般的なエネルギーの発散方法としては食に走ったり買い物したり・・・旅行したり・・・外側にアクティブに向かう方法がありますよね。


旅行なんかは結構、健全なのかもしれません。


自然な中に行く方法は良いと思うのですが、それは一時しのぎでしかありません。


あくまでもそこは生活の場ではないからです。


生活している場でどれだけ心を安定させていられるか・・・・

それが勝負なんだと私は思うのです。


人生で闘う相手は外側にはいません。

一番果敢に一生かけて闘っていかなければいけない相手は自分の心なんだと思うのです。


かなりレベルの高い強敵ですけどね(笑)


どんなに世界が荒れていてもそれに巻き込まれない、安定した心を持っていられるか。。。


どっしりと腰を落としていられるか・・・・それが勝負どころなんだと思うのです。


まぁこんな事を書いていても、もちろん私の心は毎日、右に左に揺れて生活しています。


しかし!


私はまず食べる事が苦手ですから食でエネルギー発散ができません・・・・・・(_ _。)


食べたら余計にエネルギーが溜まります(笑)


町を出歩くのが好きではありません。


家にモノが増える事が嫌なので、買い物はしません・・・・・
モノが増えていくと余計にストレスです。(_ _。)


意味のない旅行も好きではありません。


なので・・・


エネルギーバランスが崩れてきた心身の徴候シグナルがテレビを見る言う安っぽい行為になる。(しかできない)


あまりに貧乏臭くて笑えますが(笑)


最近はエネルギーバランスの崩れで集中力欠如シグナルの「無意識にテレビをつけてしまう」と言う行為を自覚したら、基本に立ち返ります。


呼吸&ヨガ。。。。断食・・・・

水、お湯、水、お湯の入浴法で気持ちを切り替えます。


特に冬はいいですよ。

水、お湯、水、お湯・・・を七回繰り返す西式温冷浴です。


湯船が一つしかありませんので時間があれば、水風呂のある銭湯へ。


時間がなければ自宅の風呂場で水をかぶります。


結構、この方法、頭がすっきりサッパリ、シャンとしますし、途端に心は静穏になります。


カラダの気の流れがいっき変わり、なんだか荒ぶれた雑多なエネルギーが精妙になるのがわかります。


短時間で切り替えができるのでモヤモヤ感が出たらやるようにしています。


もちろんそういう時は極力、甘いもの、冷たいものも体に入れません。


そんなこんなで、現在はかなり集中力が戻ってきました。


こうやってブログを書けていますしね。


仕事が忙しかったせいもあるとは思うのですが、なんだか世界のバイブレーションに反応しているような気がしないでもありません。


かなり荒れているような雰囲気がしますから。

天も地もなんだか騒がしい・・・・

大事にならなければいいのですが・・・・



話はまた横道にそれました。


テレビに話を戻します。


しかし不思議です。


普通に考えれば心がざわついていると静かにしたいと言うベクトルになって、早く心を沈めたいと思うのでしょうが・・・・人は往々にして反対の行動に出るようです。


自分の心を見つめられないから外側に逃げるという行為で一番簡単なものがテレビなんですよね。(恐らく)


あの箱怖いです(笑)


自分をわからなくさせる装置なんだな~と、テレビ断ちをして、よくわかりました。


あの騒々しい箱を見ていれば自分の心なんてすぐに忘れさせてくれます。


なんだか自分の心を忘れていられる。


心は自分に見つめられるのが嫌なんでしょうかね?


特にこの喧騒はなはだしい日本を見ているとそう思います。


心はいつも騒ぎ立てたいものなのでしょう。


心は落ち着かせた方がいいと頭ではわかっていても、騒がしい方にベクトルが向いてしまうのは何故なのでしょう。


やはり恐れや不安がそうさせてるのかもしれません。


「落ち着いてなるものか!」といわんばかりに心はどんどん騒がしい方に向かいます。


前述しましたが、「安らぎ」を求めて人は旅行に行ったりと、外側に平安を求めて行動しますが・・・・


本来の安らぎ、落ち着き、安定は精神の中にあるのだから・・・・


外側に向かう行為で安らぎを得る事はできない。


私達が一般的に求めている「刺激」とは真逆の反対にいかない事には安らぎ、心の落ち着きは得られません。。。。。


刺激の中では心身の緊張をほどける事もできないでしょう。


あっちこっち・・出かけて求めてもソレは無い。


本来の心の平安は今、ココで感じない事にはどこに行っても感じられないからです。



自分の中の安らぎの中に入るしかありません。



だから瞑想や座禅なんでしょうね。


まぁ迷想になっている瞑想もあるとは思いますが、。。。。(笑)



不安にかられて動き回る。


回遊魚のように止まったら死ぬバリに社会は動いています。


それは恐らく。。。

自分自身と心を同一化してしまっているのかもしれません。



「私」と言う概念が根強く私達の軸になっている。


しかし「私」なんてものは本来無い。

でも、在ると思っている「私」


自分を見つめていけば「私」は無いということがわかる。


私が無くなると「心」は怖くなります。


「私」が在るからなんとか生きていられるという事でもありますからね。。。。


しかしこれもバランスです。


我(私)を無くす必要はありませんが、我(私)を薄くしていく作業は必要なんだと思うのです。


私を薄くしていく事ってなーに??(笑)となると思うのですが、当たり前の事を当たり前にやると言う事だと私は思っています。


我良しで欲求のまま生きるのを止めればいいと言う事なんでしょうね。


まず一番の基本は自分の身体(神体)を大事にする。


食べ過ぎ、飲みすぎ、睡眠不足、動きすぎと言った物理的な行為や、心の間違った使い方・・・・


怒り、憎しみ、憎悪、不安、心配、恐怖・・・・

人間の心に備わっている感情だからと言って使い放題ではいけません。


これはカラダをとっても粗末に扱っている行為だと私は思っています。



そして


人を思いやる気持ち


とか


人の喜びを我喜びにできる


とか


正誤の判断を少なくする


とか


あれアカン、これアカンから
これエエでぇ、それもエエでぇ、あれもエエでぇ
という受け入れる心を大きくするとか


どれだけ、心の緊張を解いてオープンマインドで世界と接する事ができるのか・・・・


オープンマインドと言う言葉は好きではありませんが、

でも心が開いていれば許せる事も多くなるはずですからね・・・・


そういう当たり前の事が当たり前にできる事が心の平安を作るのだと思うのです。


でも私はそれが中々難しい。


なので日々、精進していくしかありません。


心を落ち着かせて、自分を鑑みて、生活を正す。


テレビを消して・・・・静かに座る(瞑想)これ。。。実は中々難しい。


それでも私はトライし続けたいと思うのです。