2013年の幕開けから・・・もう早、一ヶ月が過ぎようとしています・・・・・
あれよあれよと言う間に春が来るのでしょうね。
来週は今季初のスキーに行ってきます。雪一杯あるみたいですね。
現在、昨年の暮れに掲げた今年の抱負「テレビを見ない」「情報の断食」を続行しておりまして・・・・
昨年12月29日からほとんどテレビを見ていません。
時々レンタルDVDの映画や特定の番組を録画したものを見たり、朝出かける前のお天気模様の確認はしますが、基本は情報の断食を遂行中です。
中々この断食はいいですね。
私は元々、音が苦手です。
ですので雨の日は結構好き。(*^-^)b
雨は外の音を吸収してくれるので心が落ち着きます。
だからと言って晴れがキライなわけではなく大好き♪心が晴れ晴れしますし軽くなります。
どんな天気もそれぞれの良い部分をクーロズアップして体感すれば心地よいのですよね。
そんなこんなでテレビを見なくなって、しばらくはラジオを聞いていましたが、最近はそのラジオもつけなくなりました。
一旦情報の断食を始めるとラジオもお腹いっぱい感できつくなってきます。
音楽だけならいいんですが、人が話す番組は声だけですからその人の思考と言うかエネルギーがダイレクトに入ってくるので若干煩わしさを感じるのです。
ラジオは言わば個人的でテレビは大衆的です。
まぁ個人的にしろ大衆的にしろ、いずれにしても情報発信側の思考が見ている人、聞いている人の脳に浸潤していくベクトルにある。
テレビは映像と音で聴覚、視覚の両方から情報のエネルギーを取り入れます。
私達の意志とは関係なく自動的にテレビやラジオをつけているだけで膨大な情報量が無尽蔵に入ってくる仕組みになっているのです。
知らない間に情報の渦に巻き込まれて雁字搦めになってしまうのも普通にある事なのでしょうね。
情報は武器だとよく言われます。
情報の入る量を制限するようになって、私達大衆は情報操作された思考が自分の思考だと勘違いして日常を生きている可能性があるのではないかと思うようになりました。
まぁいずれにせよ、鎖国(笑)を遂行するようになって頭の中が気持ちいい。
昔。。。テレビばかり見ていたらバカになると言われた事があったけど、これって案外本当なのかもしれません。
情報の断食をしょうと思ったきっかけは「時間が勿体ない」から。
何気に目的もなくテレビを見ている時間が勿体ないから、その時間を無くすためにテレビ見ない運動を始めました。
今までテレビを見るために使っていた時間に色々な事ができるようになりました。
一番の収穫は早寝早起きが楽にできるようになったことです。
早起きして行う朝ヨガはカラダが躍動し細胞が喜びます。
夜のヨガは一日の疲れを抜いて全身の緊張をほどいて、リラックスモードに誘います。
あ~幸せやな~と思う事が多くなりました。
ゆっくり読書なんかも楽しんだり、手紙を書いたり。
明日のお弁当作りも丁寧に準備ができます。
いいことだらけです。
しかし・・・見なくなって物理的な変化とは別に色々と気づいた事があります。
あまりにも外側の情報に自分を持っていかれていたと感じるのです。
元々テレビはそんなに見る方ではありませんが、それでもそう思うのですから一日中テレビをつけっぱなししているお家はどういう事になっているのでしょうか。
正月に友人の家に遊びに行ったのですが、見もしないテレビがずっとついてました。
消さないの?と聞くとテレビがついていないと落ち着かないと…
どうして落ち着かないのでしょね。
その家の子供もテレビ漬けです。
車に乗っててもテレビを見ているほどですから。
どうなる事やら・・・・
話は横路にまたまたそれましたが、テレビを見ないようになってわかった事は……
テレビを見ている時は極端に考えるという事が少なくなっていると言う事です。
テレビはわかりやすさを追求しているので自分の頭で何も考えなくても理解できるように作られているからでしょうね。
これって見ている時には気づかないのですが、見なくなってこのカラクリ気づき恐ろしくなるのです。
時々テレビをつけるとなんだか異質なエネルギーに乗っ取られているような感覚になるのにも驚きました。
先ほども書きましたがテレビは映像として視覚から、音として聴覚からエネルギーを脳内に取り込み理解します。
二つの感覚器官で基本全てを理解できるようになっていて、この感覚器官が取り込んだ情報量は膨大、且つはっきりとしているので、自分の考えをはさむ余地がない。
答えを向こう側から提示されてしまうからだ。
なので発信する側の情報がそのまま自分の情報として蓄積される。
あたかも自分の頭の中から発生したモノであると勘違いしてしまうほどに、その取り込んだエネルギーは自分と同一化してしまう感覚に陥る(ように私は感じます)
極端な話し、文字や言葉が理解できなくて、目や耳が健康であれば、ある程度まで理解できるというのがテレビです。
エネルギーが強烈だからですよね。。。。きっと。
紙媒体はそうは行きません。
活字を読むと言う行為は、文字を理解する力が必要とされる。
文字の意味を知っている必要があるし、それを頭の中で繋ぎ合わせる力もいります。
また日本では行間を読むと言う言葉があるよに「・・・・・・」この部分を想像する力があって初めて読書を楽しめるわけです。
また物語ではあれば活字を自分の頭の中で映像化する想像力や創造力が必要となってくるのですね。
何かの本で読んだのですが、
テレビを見ている時の脳は「受動的な脳」と呼び
情報を咀嚼して消化する脳を「能動的な脳」と言うそうです。
私達の世界は色々な場面で主従関係が生じていくのですが、テレビを見ている時は「テレビ」が「主」で「私」が「従」なんですよね。
現代人はテレビの奴隷になっていると言っても過言ではないかもしれませんね。
さて自分にとって本来、快適だと実感できるのはどちらでしょうか。
怠けた脳の時の「受動的な脳」の時でしょうか。
それとも一生懸命をエネルギーを使って働く脳の時「能動的な脳」の時でしょうか。
私は能動的な脳である時の方が満足度が高いと思うし、生活のクオリティも格段上がるのではないかと思うのです。
家に帰ったら自動的にテレビをつけてしまうのは、もうテレビホリックになっている証拠なんだと思うのです。
テレビ断ちをし始めると一時期かならず禁断症状が出ます。
私も少なからず出ましたし、それは事在る毎に出現してきます。
長年のクセですから・・
ついつい帰ってきたらテレビのリモコンを探している自分に気づきます。
特に一人住まいだと、その誘惑は事在る毎にやってきます。
そこをグッと我慢して、違う事にエネルギーを使ってみる訓練をしてみる試みは一度はしてみるものだと私は思います。
しばらくテレビをみない生活を続けると違う世界が見えてくるのにきっと驚くでしょう。
能動的な脳を続ける事で感覚が鋭くなってきます。
ある意味、とっても効果のある浄化法だと私は最近感じているのです。
なんであれ、現代社会はテレビを見なくてもネット(仕事で)はやらざるを得ません。
情報は否が応でも入ってきますから・・・世捨て人になるなんて事はない。
テレビを見なくても普通の常識程度の社会的情報は私も知っていますから(笑)
断捨離と言う言葉がありますが、物理的に在る物を捨てるだけでなく、情報を得たいと言う欲求を手放す事も・・・・断捨離の一つなのではないでしょうか。
テレビ断ち。。。。頭と心がほんと気持ちいいですよ。
食断ちは身体が気持ちいい。
テレビ断ちは頭と心がかなり気持ちいいです。
50歳を過ぎれば(まだ過ぎてませんけど)、何かを得る為にエネルギーを使うより、50年かけて貯めてきたモノを捨てて行く行為に移行していく時期なのかな~なんて思います。
捨てる物は物理的なモノと言う事ではありません。
目に見えない自分が人生で培ったモノ(エネルギー)を社会の為、家族の為、世界の為に放出していく事も老年前の重要なお役目なのではないでしょうかね。
ぜーーーぶ捨てて空っぽになって、最期は手ぶらにあの世に旅立つ。
あ~なんだか理想的だな~
なんて思うのは私だけでしょうかね。