先回のブログで池田晶子さんのコラムの事を書いた時に、、、、
そう言えば池田晶子さんの闘病生活って長かったような記憶があるな~なんて思い出した。
昔、池田晶子さんの三部作を購入して、中に挟みこんであるハガキを送ったら、池田晶子さんの最後の手記と呼ばれている「絶縁状」が送られてくると言う事でハガキを送ったら、絶縁状が届いた。
それを本棚から引っ張り出してきて再度読んだ所・・・・
なんと彼女の闘病生活は15年。
その間、八回も再発を繰り返していたと書かれていた。
絶縁状の「絶縁」は「ガン」との絶縁を宣言したものである。
彼女は30代前半でガンとなり、15年間、死と向き合っていた。
故にと言うか、だからと言うか、私が言うのもおこがましいが・・・・
死ととっても近い場所で書かれていたので、キレ味抜群で人の心を動かす文章書けたのかな~と想像するわけです。
まぁスゴイ精神力ですよね。
結婚された時はすでにガンの治療中。
なので子供は産まないとご主人に宣言されてから結婚されたのもうなずける。
ご主人の懐の深さも感じるところですね。
ただ想像に過ぎませんが。
絶縁状を読み返すと以前、感じた感想とはまた違った見え方がした。
送られたきた当初はなんだか池田晶子さんらしくないな~なんて思った。
でも違う側面も見て取れた。
やはり池田さんの覚悟は違うと・・・・・
池田さんが尊敬していた小林秀雄さんは
食べるために書くくらいならば、一瞬で筆を折って”野垂れ死に上等”「おまえらとは覚悟が違う」
と書いているが・・・・
なんだか・・・・二人ともすげぇよ・・・・
本当に自分が小さく見えてくる。
イノチへの覚悟あらへんよな~ワタシ・・・・
なんて思いながらも世界中の人が、これだけギリギリな集中力で生きたら世界は破滅する(笑)
そう・・・・私の役割ではない(笑)と言い訳をしながら白湯をすする。 (・_・;)
それぞれのイノチの背景が違いますから。
彼らは凝縮された魂を持ってこの世に登場しプロ級の集中力で精神の極みを追求する。
考えると言う事に集中し続ける。
私は精神性よりも身体性の方に興味があり、どうしてもそちらを重視して生活をしてしまう傾向の背景を持っている。
まぁ凡人がする範囲内ですが…(笑)
この世界での乗り物である依り代は神秘の極み。
そのあり方を追求していくと、おもしろくて仕方がない。
カラダと言うのは自分の意思ではどうする事もできない。
ほとんどの機能が自動的に動いて、このイノチを存在させているのですよね。
心臓の動きも腎臓の動きも肝臓の動きも自分で止めたり促進したりはできない。
体に菌が入ってきても、それを撃退する事も自分の意志ではできないのです。
身体のセンサー部門の細胞が異物を察知し、信号を送ればスイッチが入り身体は戦闘体制にはいる。
身体にはプログラミングされているエネルギーコントロールシステムあって、その指示に従って動いているわけです。
誰がプログラムしたのかはわかりません。
マザーコンピューターがどこかにあってお母さんのお腹にいるときにインストールされるのかもしれませんね。
想像の域からは出ませんが…
しかし長年使っているとバグが起こり、身体は不調和を起こす。
そのバグが病気です。
プログラムにバグが起こらないようにメンテナスをし続ける必要がある。
それが身体の面白いところです。
意思でどうにもできないのですが、ただ微妙なラインでコントロールする事がなんとかできる(はず)
そのラインを見つける作業が面白いのです。
プログラムのメンテナスをしながら、どういうプログラムなのかを解析していく作業も面白くて仕方が無い。
この身体は神の依り代ですから、、、、
身体を追求すればするほど人間の本質に近づいてるような気になるから不思議です。
少し絶縁状の話から反れましたが・・・・
それぞれにこのイノチの昇華の仕方が違うのでしょね。
イノチとは量よりも質だと私は思っている。。。。
どうやって生きたのか。。それが大切なんだと思うのです。
早く死んだから負けなんて事はサラサラない。
どちらかと言うと私は早くこの世界から抜けた方が勝っているように思ってしまう性質ですから・・・・。
やりきったんだ~と羨ましくなる(笑)
私達は自分達を完成品だと思い込み過ぎているフシがある。
この世界は恐らくですが・・・・生物、生命としての実験世界のような気がしてならないのです。
要するに完成品のイメージと自分やこの世界を重ね合わせると欠陥しか見えません。
足りないモノばかり目がいき不満が多くなります。
私達は元々不完全な物ですが、完成品を目指したイノチのベクトルではないのではないかと思うのです。
完成する方向性を目指しているわけでない。
不完全さを全うする
与えられたモノを全うする・・・
それでイノチは喜ぶのではないかと思うのです。
池田晶子さんはどんな時もイノチへの姿勢は一貫していて病気によって作品の内容や関心の在り方に振れは一切見られなかったと言う。
人生の経験が思索を変化させる事はなく、それはただ静かに時熟し、深化し続けたと・・・・・そして亡くなる前日まで仕事を続けて書き続けたと・・・・・
彼女はイノチの本質を考え続けた人だ・・・・
私は彼女にようにストィックにはできないが、それでも私は身体性からイノチの本質を考えて生きたいと思うのです。
イノチを…
そしてそのイノチを宿している依り代である身体を存分に感じていきたいと思うのです。