ヨガの取り組み方に対して様々な考え方がある。
今まで色々な先生に付いたけど、ヨガに対しての情熱と比例して考え方も皆違うのです。
もちろん源流は同じですからね、、、、似たりよったりではあるんですけど・・・・
どれが正しい、間違っているという事ではなく、それぞれの人生の生き方に添ってヨガへの向き合い方も多少違ってくるのでしょうね。
ヨガ一つとっても千差万別ですから、人生論なんてものは無尽蔵のごとくあります。
本屋に行き人文、哲学、精神世界コーナーに行けば様々な考え方に遭遇します。
「考えない」事を推奨している本と「考える」事を推奨している本が隣り合わせにあったりするから笑えるのです。
どちらの本もパラリと立ち読みすると納得がいく内容。
「そのとおりやろな~」なんて思うのです(笑)
しかしそれと自分の人生で実行しているという事は別問題で、私は今まで考える事を放棄してバカになり、生きる事に苦悩してきたという経験がある。
そしてその苦悩から脱出できたのは「考えない」事の反対の行為である「考える」という事だった。
だから人生の生き方の基本としては「よく考える派」だ(笑)
でも「考えない」という方の思想を読むと一理あるな~とも思うわけです。
そうなんですよね、世の中には考えても仕方がない事と、考えないといけない事がある。
要するにケースバイケース。
ヨガも同じ。
最近、、、、聞いてて「そのとおり!」と「うーーんそれじゃ~どうしょうもない事もあるな~」と同じ意見に対して二通りの事を感じたんです。
アーサナ(ポーズ)をとっているときに「安定して快適」な位置にいることが望ましいということです。
不安定で苦しいのはアーサナとは言えない的な感じでしょうか・・・
ヨガには「難しいもの」「激しいもの」は存在しないという思想です。
確かにそうなんです。無理はいけない、、、、でもある程度無理をしなと先に進めない。(とも私は思う)
でもきっとこれらは正誤ではなく、人の志向の問題でしょう。
不安定な場所を志向する人もいるでしょうし、激しいもの、苦しいものを志向する人はこの世界に必ずいます。
楽をしては真理は見つからない・・・・という志向です。
ただこれには落とし穴があるように感じる。
苦しい事をポジティブに捉えられればいいのですが、苦悩を怨嗟のエネルギーにしてしまう場合には問題があるのではないかと思うのです。
まぁそれもその人の志向と言ってしまえばそれまでなんですが・・・・
どうして人を殺してはいけないのかという質問に対して、自分も殺されたら嫌でしょ?だから他人に対して自分が嫌だと思う事はしてはいけないという風に説明する人がいるかもしれませんが、では殺さる事が嫌だと思っていない人は人を殺してもいいのかという話しになってしまいます。
人を殴ってはいけません。
自分が叩かれたら痛いでしょ?と
では叩かれる事が快感の人にはなんと説明するのでしょう。
屁理屈だと言われそうですが、嗜癖は皆違うのですよね・・・・
この世界の人間が決める善悪は効力がなく意味がない。。。。。
だから違う意見の人に対して批判否定をするのは意味がないと・・・・やっと私はそういう風に思えるようになったのです。
自分と違う意見や一般的な大多数が支持する道徳に反した行為は悪だと批判するのは一側面でしかモノを観ていないということなんだと・・・・・
物事には必ず両側面存在して一つなんだと。
どんな意見も一理ある。
しかしそれも個々の思い込みなのかなとも思うわけです。
無理をしてはいけないと言う思い込みと
無理をしないと成長はないという思い込み。
人は同時に両方は選択できませんから、どちらかに決めないといけません。
どうしても自分の心のクセで無意識に選択してしまう。
それぞれの思い込みで物事を選択しているのだと思うのです。
それが苦悩の選択としてもです・・・・
それを回避したい場合にはやはり意識的に生きるしかないのでしょう。
疲れますけど(笑)
些細な事からはじめればいいかもしれませんね。
瞬間的に腹が立ち文句の一つでも言いそうになるところを、とりあえず笑ってみると、現実は180度変わるでしょう。
何で腹がたったのか?という自分を鑑みる作業は後でもいいわけです。
とりあえず瞬間的な行動を変えてみるクセをつけると、また違った現実がたち現れたりします。
まぁ私も中々できないんですけどね(^_^;)
で、、、それは地球規模でも言える事で、地球人類の集合的なエネルギーの思い込みが今の世界を作り上げているのでしょう。
その思い込みの最たるモノは、やはり「マネー」なのかな・・・・
この世界はある意味、一神教と言えるのかも。
お金という名前の神がこの世界に君臨し、多くの人がこの神を中心に動いている。
「おかねのおおかみ」はこの世界の最高級の神なんだと・・・・私は感じています。