このブログを書いていると自分の拘っているモノ、投影しているモノがよく見えます。


善悪についてや物の見方。。。そしてこの世界がどうなっているのか。。。


というような事をよく書きます。


もちろん公のブログですから、他人に向けて書いていると言えばそうなんですが、一番読んで欲しいのは自分なんだといつも思うのです。


音読という勉強方法がありますが、小学校ではこの方法で子供達に教科書を読ませているところもあるようです。


それと同じで、自分の書いたものを自分でもう一度読み、再確認し、思考を再構築するようなんです。


書きながらも自分の思考を整理しながら、これでいいのか?こういう風な捉え方でいいのか?と問い続けます。


ちゃらけた記事の時にはそんな事はしませんけどね(笑)


そうやっていると自分が少しは見えてきます。


私は余程、物事をはっきりと分けるクセがあり、その価値判断で苦悩している。


だから善悪はないよと必要以上に拘って記しているのだと思うのです。


はじめっから善悪の判断をあまりしない人はそういう思考にはなりませんからね。


自分自身の物事の捉え方に苦悩しているから、この世界を知って、どうやって物事を捉えたら楽になるのか。。。


だからこの世界の観方にこだわるのです。


そして心身の浄化に拘ります。


なので私の体はよほど汚れているように感じているのだと・・・・・


人間とは往々にして、自分にとって一番必要な事をしようとする傾向にあるようだと私は捉えています。



なので。。。。セラピストやカウンセラーを見ると、この人が一番カウンセリングして欲しいのかな~?なんて見てしまうし。


ヒーラーを見ると、、、この人が一番癒されたいのかな~なんて穿った観方をしてしまいます。



お坊さんや修行僧もそうです。。。。こういう戒律の厳しい場所に身をおかないと自分を制御できないほどのエネルギーがある人なのかな~なんてね。


牧師さんを見ると、、、、懺悔したいことが一杯あるから牧師になっているのかな~って。


もちろんそういう人ばかりではありません。


ネガティブなエネルギーの強い陰のタイプの人に多いのかもしれません。



思想も同じです。


何か説教じみた話しを聞くと、その人はどういうエネルギー、どういう無意識で、その事に惹かれるのか?と考えてしまうのです。


例えばですね、ありがとうと言いましょうと言うような「ありがとう啓蒙思想」の人がいたら、、「この人、よっぽどありがとうが言えない人なのかな??」と(笑)


凄まじくひねくれていると自分でも反省しているのですけど、どうしてもそう思ってしまうのです。


いつも廻りに感謝して、自然にありがとうと言葉が出る、母性の塊のようは女性がいるのですが、彼女は一切そういうことは言いません。


誰よりもありがとうを言える人なんですけどね、他人にありがとうを強要したことはないのです。


彼女にとってはありがとうは人間としてあたりまえの事だから、意図的にありがとうを言うという発想にならないし、もちろんありがとうを言えば運命が変わるなんて一寸も思っていない。


感謝しましょうも同じ。。。。


この人、よほど感謝できない人なのかも??なんて思うんです。



個々の無意識が望んでいる事を実現するために、わざわざ感謝できなくして、感謝を覚えていくという手法をとっているかのように見えるのです。


それは自身のバランスの悪さとして現れる事もあるだろうし、苦悩、苦労、苦痛という形で現れる事もある。


それにどうしても集中せざるおえない状況を自ら作り、無意識の望みを叶えようとする。(それを「成長」という言葉で表すのかもしれません。


しかし・・・・・そこまではいいのですが・・・・・


それを利用して他人を巻き込み。。。上昇志向の囚われになってしまうとアウトかな。。。。なんて思う今日この頃です。



気をつけないとですね。