現実に起こったことを判断する時、その時に気分がいいか、悪いかで「良い出来事」「悪い出来事」という風に決め付けます。
例えば
彼氏にふられた。。。。。
「悪いことが起こった。」
事故に合った。。。。
「災難にあった。」
病気になった、、、、
「不運だ。。。なんで私だけ」
と。
でもその現実そのものを私達の主観で良い悪いを決めることはできない。
と・・・
頭でわかっていても、実際現実が辛いとそうは思えない。
今の苦しさや悲しさに飲み込まれて、起こったことを善悪の判断をつけずに客観視することは中々至難のワザである。
しかしこの間ある出来事があり、やっぱり起こった事ってその時には判断できないんだと実感したことがあった。
以前にも書いたことがあるが、私と同じ年の知り合いの女性が乳がんになった。
自然療法で治すと、一切西洋医学を拒否して免疫療法をやっていたが、結局腫瘍は大きくなり西洋医学に移行し、手術をして右の乳房を全摘した。
この話は2006年の話。
未婚で彼女は病気になるずっと前から彼氏がいなかった。
もう10数年一人で生活している。
変わった性格でもぶっさいくな顔でもない。。。。
きれいな常識的な女性です。
彼女は乳房を切除し、ホルモン治療をやっているので現在生理もない。
生活スタイルがかなり変わったと言っていた。
天丼。焼肉が好きというぐらいに脂っこいものが大好きで、お酒も好き。
そんな食事スタイルも変化し、肉や脂っこいものを食べなくなり、玄米菜食。
飲酒もほとんどしなくなったと。
仕事量もセーブし夜は早く帰るようになった。
手術後は引越しをして、物だらけだった部屋を一掃しかなりの物を捨てた。
本人が言うには2トントラック一台分くらいは捨てたかも。。。なんて言っていた。
しばらくご無沙汰だったがこの間ひょっこり会った。
そしたらなんと彼氏ができて、結婚するかも???なんてうれしそうに話をするのだ。
同じ職場の男性だそうだ。(すっと昔から一緒に働いていた人らしい)
なんだかすごいうれしかった。
そういうことなんだと思った。
彼女はもう44歳で治療中のため子供は難しい。
乳房も片方無い。
それでもいいという男性に出会った。
でも・・・・
恐らく彼女は病気をしていなかったら選ばなかった相手なのではないかと思うのです。
だって以前から知っている人であるのだから、もっと早くに健康な時に恋人同士になっていてもおかしくない。
彼女は病気をして眼の前のフィルターが一枚剥がれ、真実を見る眼ができたということなのかなと。
いろいろなものがそぎ落とされて素(裸)の自分になった。
だから彼の事が見えたのではないでしょうか。
彼の優しい心を感じ、キャッチする心の隙間ができた。
いろいろなものを捨てたから隙間ができたのでしょうか。。。。ね。
見えなくしていたのは自分で、それをなんとかしょうと無意識が働き病気になった。
自分で仕掛けたと言えるでしょう。
病気になって彼女はいろいろな事をあきらめたの思うのです。
彼氏を作ることも、結婚することも、子供を生むことも、、、そして命が無くなるかも知れないという恐怖も味わった。
自然療法で治すという強い信念さえも打ち砕かれて、西洋医学どっぷりとなり手術が終わったら抗がん剤、ホルモン療法も受け入れなければいけなくなった。
自分の心の枠が取っ払われ、等身大の自分になりプライドも捨て謙虚に生きるようになったのかもしれません。
知っている彼女は決して、傲慢でも我ままでもありません。
でも何か漠然と私は正しいのよというような頑固さは感じていました。
そういうものがすべて無くなったかどうかはわかりませんが、明らかに彼女はたくさんのものを捨てました。
それが真実の眼を持つための条件だったのかもしれませんね。
もう病気は再発しないと思います。
今回の病気はここでとりあえず完結、また新しいステージで何を仕掛けるか・・・・・は知れませんが。。。。
彼女は真正面から人生を生きているのだと思います。
病気になったことは一つの物語のスタートでしかなかったということです。
良い悪いではなくプロセスの中の一つの出来事に過ぎないのだな~と実感しました。
起こった事の真実は、その時にはわからない。
あとになって「あーあれってこういうことなのね。。。。」と腑に落ちることの方が多いのでしょう。
そして「あれはあれで結局よかったんだね~」なんて言うことの方がまた多いように思います。
生きるスタンスとして『「良い事」「悪い事」どちらでもええねん』というぐらいで起こったことに右往左往しないで図太く生きるって感じがいいように思う今日この頃です。