以前、田口ランディさんのブログで面白い記事を見た。
インドにはお彼岸というものはなく、先祖供養という概念もないらしい。インドの思想では死者はすぐに生まれ変わると考えられているからだ。
死んだ人があの世にいる暇がないらしい・・・・
それに墓がない、ガンジス川に流してしまうから墓が要らないのだ。
イイシステムである。
そしてチベットはもっと画期的だ。死者は【鳥葬】にされる。
ご遺体は鳥や動物が召し上がりやすいように、ちゃんと調理がされて放置されるらしい。
これは別の人から聞いた話であるが、チベットで遺体を調理する仕事をしている人だけは中国政府から迫害を受けなかったそうである。これはやはり神聖な聖なる仕事であることを中国政府は認識していたのだろう。
向こうの世界(霊界?みたいなもの)の仕事人を迫害することは、向こうの世界を敵に回しているようなものである。そんなことを中国政府はなんとなくわかっていたのかもしれない。
日本も近年まで(江戸時代あたり)墓がなかったらしい。河原で燃したり、山に葬ったりして特に墓標などは作らなかったそうだ。
墓の概念ができだしたのは、アメリカの思想が入ってきたからなのかもしれません。キリスト教には基本的に生まれ変わりの思想がないから、一つの御霊が永遠に生きる。
【個】というものが永遠に存在すると考えられているから、個人の墓が大事なのだろう・・・
最近では集合墓が流行っていて、継承者がない場合にはお寺が永久的に供養するというシステムで、同じ場所に皆が納骨される。でっかいプレートにずらーーーと名前を彫られるのだ。
これはいい傾向である。
しかし見ず知らずの人と一緒に同じ墓に入ることに抵抗を感じている方も多いらしい。
死んでしまったら個というものはなくなる筈である。(わかんないけど・・・・)体は魂がなくなるとただの物体だと思うし、墓にその人の魂があるとはどうも思えない。
私は昨年、23年前に自殺した母の墓を建立した。
これには長い長い23年の経過の中で結果として行なったことで、母道江を取り巻く私を含めた周囲の人たちの為に建立したものである。
決して死んだ母道江を偲び建立したわけではない。
紆余曲折あった・・・・・生きている人達がこの墓の建立で気持ちの納めどころを見つけたようである。
墓とは生きている人のものである・・・・と私は思う。