この間、一通のメールがきた。
その中の言葉がとっても印象に残った。
「友達がおらず孤独中毒な状態でしんどくなり・・・・・・・・・」と続いていくのだが、「孤独中毒」って言葉なんだかイイではないですか・・・
恐らくこの人は実際に物理的に孤独なのであるとは思うのだけども(もう何日も人と口を聞いていないらしい)、そういう表面的なことではなく恐らく孤独というのは大勢の人のテーマである。
人の心の中には孤独感というものは大なり小なり存在するはずである。
友人もいて家族がいても孤独を感じて死んでしまう人は沢山いる。私も孤独人間だからよくわかる。
そして中毒というのは、言葉を変えれば依存という言葉になる。
「孤独依存」
これも同じく、人は何かに依存して生きていることが多い。
依存は乾きであって・・・・・渇きを癒すために依存という水を飲むのである。
より自分にリアリティーを感じる嗜好があるの人が孤独に依存するのである。
ランボーも孤独で寂しい人であった。
横道に反れた・・・
人は恐らく物理的な外側の現象に対して孤独を感じているのではないと思う。(表面的には違うけど)逆なのだと・・・・・
孤独が心の中にあり(大なり小なり)そのエネルギーが現象化してしまっている可能性がある。もしくは外側の現象と自分の孤独感を結びつけてしまっている。
「私は友達がいないから孤独で寂しい」ではなく「孤独で寂しいから、友達がいない」となる。
「友達がいない」ということと「孤独で苦しい」というのは別と考えた方がいいように思う。
それに孤独の中毒になるということであるから、きっと孤独をこよなく愛している可能性がある。
自分のテーマが孤独の場合には、その孤独をよりリアルに感じれるように無意識は孤独をクローズアップし、それをより感じられるようなシチュエーションを作り出す。
仕掛けると私はよく言うが、人は命に対して、色々なものを仕掛けていくのである。
しかし渦中にいる人にそんなこと言ったら怒られる。
そんなことはない!と言うだろう。
私の母道江はアルコール依存であった。
どうしてもお酒を止めることができなかった。きっと本人はお酒を止めたかったに違いない。
何度も何度も止めるという言葉に騙された。
やめれなかったのだ。そして命を絶って、お酒を止めた。依存を死をもって終了させたのである。
意識でココから脱出したいと思っていても、無意識はそうは思っていないのである。
だから変わらないのである。
人間とはアンビバレントな生き物。
意識と無意識が闘っている、いや闘わずにはおれない環境になってしまったのでだろうな・・・