からだはうす舞踏ワークの時の話・・・


「なんでもよいので自然の中に行くように・・」と声が聞える。すっーと自分の内側に意識を向ける。砂漠・・ただ砂ばかりの荒野が目の前に現れた。「その自然の中に動くものを探しなさい、そしてその動くものを追いなさい」と指示がある。


足元の砂がなにやらモゾモゾ動き出す。見ていると砂の中からサソリがでてきた。大きな真っ黒のサソリ。そのサソリはガサガサと小走り?に進み出した。ただ砂の上を歩き続ける。しばらく歩くと大きな水溜り・・オアシスが現れた。


サソリは水の中に入っていった。サソリはうまく泳いで進んでいる。前の足か手か知らないけどそれをうまく動かし前を進む。私は恐る恐る水の中に入る。サソリはしまいにバタフライのような泳ぎになる、私はその滑稽さに笑いをこらえた。サソリのバタフライ・・・・・面白すぎる!!(>_<)


前の大きな足か手?を大きく回転させてバシャバシャと泳いでいる。すご過ぎる(@_@)毒針のあるお尻のハリもうまい具合に舵の役目をしているようだ。ヌルヌルした水底はとても気持ち悪い・・やっと向こう岸につき、また砂の上を歩き出す。疲れをしらないサソリは同じ歩調でガサガサ小走り。


町についた。その町は今にも砂に埋もれる勢いで、荒廃していた。人はだれもいない・・・その町の中を横切り、何もない砂の荒野に出る・・・まだいくのかぁ!( ̄∇ ̄ ;)もういいよ・・・疲れた・・・砂ばかりに私は嫌気がさしてきた。そんな思いもお構いなしにサソリは漫然と進む。しかたなくもうしばらくついていく。


振り返ると、先ほどの町はなくなっていた。そして180度どこもかしこも砂漠しか見えない。砂漠と雲ひとつない青い空・・太陽はギラギラと輝いている。絶望的になる。なんの変化もなく退屈で辛い・・これがずっと続くのかと怖さも感じる。暑いし咽も渇いた・・・そして疲れてきた・・・もう戻ろう・・と思ったが途端にある感覚が沸き起こった。よく考えてみると5分前に歩いた砂と今の砂は明らかに違う砂。ちゃんと感じると風が吹いてる・・・歩く感じも微妙に違う。さっきは足が埋もれてとっても疲れた、でも今は砂が硬くて歩きやすい。


生きることも同じだ、どうしても目に見える変化が欲しくなる。刺激が欲しい。でも大きな刺激で興奮しなくても、楽しめる・・ことはあるはず。ちょっとした変化を楽しめる、楽しめなくても感じる心があり、そういった発見をいくつできるかで、生きることが豊かになる・・と。


私のおかあさんはイベントが大好きだった。レジャーのイベントから様々なトラブル。小さいケンカは頻繁だったが大事もたくさん引き起こした。


あげるときりがないので止めておくが、一つ思い出したことがある。私の育ったところは大阪の下町。民家が密集しているところだった。家の前にビルを壊した空き地があった。私有地で網の塀があり、塀が一部破損してそこから出入りができるようになっていた。私や近所の子供たちはそこから入り砂遊びやビー球遊びをやった。


おかあさんはそこへキャンプ用のテントを張り、火を焚いて町の中でキャンプを始めたのだ。近所の子供たちを集めて・・・もちろん私も半ば強制的に参加させられたのだが、空き地の周りは住宅・・・皆怪訝な顔・・でもキチガイに刃物・・だれも何も言えない。子供たちは喜んでいたようだった。


陰ではかなり言われていただろう。皆夜には帰っていったが、張本人の子供は帰ることができない・・・私は、一晩中、蚊に悩まされて、寝心地の悪い寝床で「どうして家が目の前にあるのにこんなところで寝なければいけないのか」と悲しくなった。


彼女はじっとしていられないのだ、いつも外側を刺激的にしていないと自分を感じてしまい不安と恐れが増強し耐えきれないのだ。自分のエネルギーの大きさに恐れ、処理に困り、そういった不可解な行動で排泄していたのだろう。自分を感じないため、外側をいつも刺激的にしていった。


やりかたを完全に間違えていた。避けたものは必ず増幅して目の前に現れる。彼女は自分を避けることで、自分にどんどん苦しみ、自分に殺されたのだ。自分から逃げてはいけない。自分から始めなければなんの展開もない。そんなことを感じていると、また違う面が見えてきた。大差がないのだ。


どんなに恐れうろたえあがいても起こることに大差はない。この広大な砂漠で泣こうがわめこうが、自然は動じない。自然は大きくて動かない。変わったところで、ちょっと砂の模様が替わった程度。毎日には両側面が隠れてる。何もないと思っている自分と自分のまわりにはたくさんの秘密と刺激が隠されている。そしてどうあがいても自分も自分のまわりも自然の前では大差がないのだ。何も変わらない・・・砂漠とサソリが目の前から消えた・・・・・・・・・・


お母さんと「おとり」は少し私の中で影を潜めたようです。お母さんは私の中で生き続け、私は子供の私(おとり)のままでお母さんに乗っ取られていた。母親と癒着した状態で半ば私は彼女の人生を歩んでいた。


私は彼女から離れる決心をし、そのことにだけに集中してこの数年を生きてきた。彼女と完全に離別するということは不可能です。けれども自分の人生に責任を持つということで、彼女の私への憑依はとかれるのではないかと思うのです。


憑依されているのではなく、彼女への渇望から私が憑依させているのです。呪縛がとかれる日がくるかもしれないと少し希望が沸いてきました。やっとスタート地点にたったような気がします。お母さんの事をたくさんの人に知ってもらえたこと、感謝してもしきれません。彼女の名前は『勝木道江』といいます。


彼女からもらったものはギフトとして受け取ることができる、キャパのある人になろうと思います。そしていい人ぶって、自分を正当化せずに無意識の負の部分をしっかりとやりとげ矢面に立って生きた彼女の事を私は評価したいと思います。


死んだ彼女にもう心はない。彼女に心を与えているのは私の心の投影・・


(^○^)彼女は子守り歌の変わりに良く落語を聞かせてくれました。それがかなりの口上なもんだから、面白くて眠れなかった。寝かしつけるつもりは毛頭なかったのだろう・・・・話てくれた落語は何も覚えていないが、「飴玉レロレロ」というくだりだけはしっかりと覚えている・・・かなり変わった人だったことは間違いないようです・・・