宇野 千代 「欠点はかくすものではない。利用するもの。」 | 「素敵な言葉」 多くの経験を持つ人生の大先輩が残した素敵な言葉を紹介しています。

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歴史に名前を残した人も、かつては恋をしたり、嘆いたり、失敗したりと人生にはいろんなことがありました。そんな時に出る言葉はとても人間らしく、私たちの教訓になる言葉がたくさんあります。現代の私たちに必要なとっておきの言葉のプレゼントを集めました。


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奔放で波乱に富んだ人生を送った宇野千代の言葉には、
普通の人では経験しようもない、一種のケセラセラ(なるようになる)的な
肩肘張らない気楽さが感じられるのです。


タイトルの言葉も
「欠点はかくすものではない。利用するもの。」
とても彼女らしい、優しいアドバイス。


誰しも欠点はあるもの。
それも含めて「自分」なんだもの、しょうがないじゃない、
そんな声が聞こえてきそう。


そもそも「欠点」というものは誰と比べてそう定義づけるのでしょう?
誰とも比べなければ、それは「欠点」ではなく
「個性」と思えるのではないでしょうか。


人は人、私は私。それでいいのだと思います。
「個性」なら隠す必要もなく、上手に出していけばいいのです。
きっと宇野千代は、「自分を好きになって、自信を持ってね」と
言ってくれているのだと思います。


自分を否定しなかったからこそ、
彼女の生き方は自由にはばたく事ができたのでしょう。
さて、どんな人生だったのでしょうか?
簡単にまとめてみました。
幾つになっても前向きで元気、本当に可愛らしい方だったようです。


出典 www.morii-web.co.jp


宇野 千代(うの ちよ)
大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。
多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持つ。
作家の尾崎士郎、画家の東郷青児、北原武夫など、
多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、
その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。


1897年(明治30年)11月28日、山口県岩国市生まれ。
実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は博打好きで生涯生業につかず、
実家からの仕送りで放蕩無頼に生きていた。
千代が1歳半のとき母親がなくなり、
父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚する。
千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。
この継母が「おはん」のモデルとされる。

1911年(明治44年)14歳で父の命令により義母の姉の子、藤村亮一に嫁入りするが
十日ほどで実家へ帰る。
1913年(大正2年)16歳の時、父が57歳で亡くなる。
1914年(大正3年)17歳で岩国高等女学校卒、川上村小学校代用教員となる。
1915年(大正4年)18歳。同僚教師との恋愛で免職になり、世間の目から逃れるべく
京城(韓国のソウル)に渡る。
しかし恋心は冷めやらず、ソウルからも同僚教師に手紙を送り続ける。

1916年(大正5年)19歳で帰国するも同僚教師は世間の目が怖く、
彼女と会おうとしなかった。
元夫の弟である忠が第三高等学校学生だったので頼って京都へ行き同棲生活をする。


1917年(大正6年)20歳の時、同棲中の忠が東京帝国大学(東大)に入学、
ともに上京。各種職業を転々とし、燕楽軒に働く。
(そこで久米正雄や芥川龍之介、今東光と知り合う)
当時は絶世の美少年だった今東光とは氷水屋に通って、更に自宅までおしかけた。
その頃の千代は「本郷のクイーン」と呼ばれ、芥川龍之介の
『葱』のモデルになったとのこと。

1919年(大正8年)22歳で忠と正式に結婚し藤村姓となる。
1920年(大正9年)23歳。忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務、
北海道に暮す。

1921年(大正10年)24歳。「脂粉の顔」で『時事新報』懸賞で一等となる
(作家デビュー)。2等に尾崎士郎。
千代曰く「文章がこんなに金になるのか」と驚き、執筆活動に専念する。

1922年(大正11年)25歳。『墓を暴く』を中央公論に送ったが、
いっこうに返事がないので上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、
その場で原稿料をもらう。大金であったため、母親に原稿料の一部を渡すため
郷里岩国へ帰り、再び上京。
北海道に戻る途中、打ち合わせのため中央公論に立ち寄った際に尾崎士郎を紹介され、
ひと目惚れし、千代が押しかけそのまま東京で暮らし始める。
札幌には帰らず忠とも二度と会わなかった。


1923年(大正12年)26歳。尾崎とともに馬込に住み小説を発表す。
短編集『脂粉の顔』を出版。
1924年(大正13年)27歳。忠と協議離婚、筆名を宇野千代に改める。
1926年(大正15年)29歳。尾崎と正式に結婚。


1928年(昭和3年)31歳
よく行く伊豆の湯ケ島に来ていた梶井基次郎との関係が噂となり、尾崎と別居。

1930年(昭和5年)33歳。画家の東郷青児と出会う。
東郷はその年の初めに愛人との心中未遂事件を起こしており、まだその怪我のために
首に包帯を巻いていたが、千代はまたもその姿に惹かれ、
気に入ったのでそのまま暮らし始める。尾崎とは正式に離婚。

1933年(昭和8年)36歳。東郷青児の情死未遂事件『色ざんげ』を発表。
1934年(昭和9年)37歳。東郷青児と別れる。

1936年(昭和11年)39歳
都新聞(現・東京新聞)記者だった北原武夫(11歳年下)と恋愛関係になる。
戦後のファッション界を代表する雑誌『スタイル』誌を創刊。
きものデザイナーとしても活躍しはじめる。


1939年(昭和14年)42歳。北原武夫と結婚。媒酌人は、吉屋信子と藤田嗣治。
1944年(昭和19年)47歳。戦時の統制を受けてスタイル社を一時解散。熱海へ疎開。
1946年(昭和21年)49歳。北原を社長、千代を副社長としてスタイル社を再興。
「スタイル」を復刊、記録的な売上を見せた。

1947年(昭和22年)50歳。文體社を設立し「文體」を復刊。
スタイル社の『文体』誌に後の代表作となる『おはん』の連載を始める。
銀座みゆき通りの社屋に移住。


1949年(昭和24年)52歳にして「宇野千代きもの研究所」を設立し、
翌年にはスタイル社の一階に「スタイルの店」を開店する。

1951年(昭和26年)54歳。フランス旅行。
1952年(昭和27年)55歳。スタイル社の脱税が発覚、国税庁の査定が入り
追徴金まで加えると億に近い金額になった。スタイル社は倒産。
木挽町の家を売り払い、青山の家に引っ越す。

1957年(昭和32年)60歳。『おはん』を出版。野間文芸賞を受賞。
アメリカのシアトルの万国博覧会で、きものの国際ショーを催す。
そのことがきっかけで日本の女性の着物を作る。
後の「株式会社 宇野千代」にまで発展することに。


1961年(昭和36年)64歳『おはん』英訳本がアメリカで、翌37年にはイギリスでも刊行される。
1964年(昭和39年)67歳。借金を返し終わった時、北原と離婚。
1966年(昭和41年)69歳。『刺す』を出版。


1971年(昭和46年)74歳。女流文学賞を受賞。
1972年(昭和47年)75歳。芸術院賞受賞、芸術院会員。
1974年(昭和49年)77歳。勲三等瑞宝章受章。


1977年(昭和52年)80歳。『宇野千代全集』の刊行始まる。
1982年(昭和57年)85歳。菊池寛賞受賞。『生きて行く私』を「毎日新聞」に連載。
1983年(昭和58年)86歳。『生きていく私』刊行。
100万部を越えるベストセラーになった。


出典 d.hatena.ne.jp



1990年(平成2年)93歳。樹齢1500年以上の彼岸桜の古木である「淡墨桜」の
保護活動なども行い、文化功労者を授与される。
1996年(平成8年)99歳。6月10日死去。

参考: wikipedia


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