頭の決まりの壊し方 [ 小池 龍之介 ]

 

普段、頭の中に、いつの間にか「当たり前」がたくさん詰め込まれている。

それって常識じゃないのではないかと思いこんでいることも、他人から見ればそうではないことも多い。

 

当たり前と思い込むことで、考えの範囲をせまくして、行動の範囲を小さくするんだとか。

自分の自由度を抹消せしめているようなものを、筆者は「頭の決まり」と名付けて、そうした決まりを壊して、思考のリミッターを外す。

 

 

 

身近にあった頭の決まりで、なるほどと思ったものをメモ↓

 

上から目線の物言いは、けしからん、反発して当然だ、という頭の決まり

 

上から目線と言う言葉。

あの人の態度、上から目線だよね。

無条件に絶対にだめという烙印を押される。

 

これは、何を持って上から目線と感じるかが重要なのだとか。

それを感じる本人の傲慢さの度合いによってかわる。

本人が謙虚な性格であれば、他人が多少高慢な言動をしていたとしても、上から目線だと、相手の意見を聞かなくなるなる事はない。

 

本人が、自分は大切にされるべき大人物なのであると思い込んでいるために、他人のちょっとした傲慢さに対して過敏になる。

その物言いは、立派な私に対して、尊重されるべき私に対して、生意気だ。

という、これこそ、上から目線と一刀両断するときの、裏メッセージ。

隠れた本音。

 

同じ言動や態度に触れて、それを上からととらえる人もいれば、特に何も思わず、素直に耳を傾ける人もいる。

上から目線という言葉は、相手について話しているというより、自分の傲慢さを告白しているというのが現実。

上から目線と感じた時こそ、ひょっとすると自分の傲慢さゆえに、相手のメッセージを受け止め損ねているのではないのかと疑うべし。

 

自己の慢心への気づきとすべし。

上とか下とかちっぽけな物差しを捨てる。そうすれば、むかつかずに済む。

 

 

心の平安で無気力になる、人生がつまらなくなりそう、という頭の決まり

 

何を幸せと考えるか。

 

心が平穏になり、我が身一つで幸福感を感じるようになってくると、何かが足りないという感じがなくなってくるため、ことさら娯楽や飲酒や大騒ぎすることなどには意味が感じられなくなり、自然とそうしたものから遠ざかる。

 

だが、己の身一つで幸せという安定感や安心感が薄らいでいくと、以前楽しんでいた娯楽に興味がなくなってしまっていたことへの寂しさゆえに、またその娯楽へ戻る。音楽、漫画、ゲームあるいは、インターネット上での記号のやりとりなどに夢中になってみたくなる。

心が何も頼らず自立していた感じを失うと、もの欲しい感じになる。

楽しそうという感覚を与えてくれる代償として、何か別のものに依存度を高める。

 

しかし、自分の幸福度が下がってきて求める、楽しさを与えてくれるものは、一時的な楽しさを心に植え付けるだけ。

それらに、ひかれたとしても、どこかで一時的に過ぎない偽物な楽しみだと知るべし。

 

世間的な楽しみは、さらに心の欠落感を増大させるだけ。

それに比べ、自足の中にある瞑想的平穏さは、幸福感にあふれている。

瞑想的なことに、さらに身を置くことによって、今まで楽しみだったことに強く影響を受けなくなり、色あせる。

瞑想や瞑想的なことを行うことで、自給自足感が完成する。

そうすれば、心を乱されることもない。

今までの娯楽は、つまらなくなるわけではなく、ただ単に一瞬楽しいと感じるだけであって、ダラダラと楽しんで執着できなくなるだけのこと。

 

いろいろすでにごった返しに詰まっている「頭の決まり」が、罠として仕掛けられている。

それを壊してこそ、幸せを発見できる。