暮れに野毛の丘の上の1LDKを解約して、寿町の簡易宿泊所に移った。
それから、年が明け間もなくして、サミーが死んだ。
突然だった。
なんだかんだはあるが、いいおやじだった。
正月早々にカルナバルで、愛飲のハバナの葉巻を分けてくれた。
最近娘の喘息がひどいって零していた。
来月には新しいギターが手に入ると弾ませていた。
ぼくが、
「女の子の歌なんだけど、ジェシカローズってゆう、もう解散しちゃったバンドがあってね、
彼女らの曲を弾いて歌ってみたい」
って、話したら、
「いいよ。にいさんにギター、教えてやるよ」
って、柔和な眼差しで応えてくれていた。
離れて暮らすマリさんの心配をしていた。
マリさんは前の奥さんらしい。
カルナバルで偶然出会うと、いつも音楽のことを嬉しそうに話してくれた。
ビートルズが武道館で歌った日、自分が前座の歌い手の付き人をしていたって話は、
もう何度も聞いた。 本牧の接収地で演奏していた若い頃の話も耳にタコだ。
船乗りだったから港を愛していた。海猫がどうした、とか、ぼそぼそ垂らしていたけど、
適当に笑ってぼくは聞いていなかった。
最近の横浜は、別の土地の奴らが牛耳ってやがる、って舌を打つ。
ピンと来なかったけど、この街の若いのは元気がないんだと、ただ嘆きたかったんだと思う。
酒は相変わらずビールと決まっていた。 酔ったサミーをあまり見たことはなかった。
だのに最後に会った日、珍しくサミーは潰れていた。
バーテンの『彼』に尋ねたら、知りません……と、首を振った。
カウンターに突っ伏したサミーが、とろんとした目を向けてぼくに語りかける。
「もう曲は出来ているんだ」
誰に聞かせたいのか、って聞いたら、
「娘と孫のサリ、それからマリに。 新しいギターで弾いて聞かせたい」
と、薄く笑った。呂律は回っていなかった。
サミーは死んだ。
明け方の中華街で、警官が路上で眠っているサミーを揺すり起こそうとする。
その時、もう冷たくなっていたのだと、カルナバルの『彼』が教えてくれた。
離れてくらすマリさんって人も、喘息持ちの娘も、 サリという名の孫も、 新しいギターや、
もう出来ていたという曲も、サミーが口にした全ての愛おしい存在たちは、
本当にこの街に存在していたんだろうか?
今となっては果たして分からない。
サミーがくれたのと同じ銘柄を元町のシガーショップで手にいれた。
火をつけた。
この土の風味は、サミーの匂い。
なあ、俺にはこれしかないけれど、 これで後を頼まれちゃあくれないか、と、
サミーに肩を叩かれたような気がした。
それからぼくは伊勢佐木モールの古道具屋で弦が一本切れたギターを手に入れて、直しに出して、
ジェシカローズの譜面も買った。
常連客にギターが弾けるとゆう僧侶がいるので、彼にちょこちょこ指南を受けて、あとは独学と決める。
ジェシカの曲がまともに一つでも弾けるようになったら、それはそれでサミーへの供養にもなるかと、
意味のないことを考えていた。
「わけは何でもいいじゃねえか」
昨日夢の中で、でき立てほやほやの楽譜をサミーに渡される夢を見た。
「にいさんよ、新しいナンカを始める元気が出たんだろう? な、あんた今、 “ファ ”じゃないぜ。
“カ ”だな」
ケケケケ、サミーはイカレポンチな笑いをした。
ぼくは何も答えなかった。何も答えないで、黙ったままその譜面を受け取った。
その時だ。
全身がぞわっとする。
譜を差し出してきたその手は、大きいけど重さのない、あの……、あの懐かしい手だった。
ぼくは途端に涙が溢れて来る。
そしてサミーを見ようとした。
何としてでも彼に邂逅しようとした。
だのに、なぜだか、なぜなんだか、どうしても顎を上げることさえできない。
「行かないで……、行かないで」
ぼくは歯をギシギシやって藻掻きながら、必死にそう絞り出していた。
季節は春になった。
まだ肌寒い日の午後だった。
「で……、挙式はいつさ?」
ぼくはおずおずと尋ねる。
「もうすぐ一年だから、そうしたらね」
「離婚記念日を過ぎたらってことか?」
入籍は喪が明けてから、って気分でね。玲子は笑った。
「あゆむのほうは? 恵美さんとどうなの、うまくやってるの?」
玲子は、この緩やかな風に乗せるようにさらりと聞いてきた。
「ああ、まあまあ……な」
ぼくは薄く笑った。
玲子もぼくも、あれから一年近くが過ぎ、今の互いをたくさん知りたがる。
けれど、互いの現在を分かち合った所で、巻き戻しの利かない過去と
気持ちの折り合いがつくわけでもないことも知っている。
ねえ、ところで、
「松坂屋デパートの屋上で再会しようなんて、いかにもあゆむらしい」
約束を交わした時、そう思ったのだと、玲子は笑った。
もう間もなく十年にもなる。二人の初デートはここだった。もっとも、感傷的な涙を誘うあれじゃない。
「あなたはこういう演出が好きね」
そう。あの頃のぼくはいつだって、二人の時間にスパイスを利かせる「場」のアイテムを凝らしたがった。
「良く言えば優しいのだけれど、悪く言えばキザ。でも昔のわたしはそんなあゆむの性格が嫌いじゃなかった。
今日わたしね、できるだけあの頃のメイクの仕方を思い出してみたの」
別れてもなお、こうしてきみを傷つけたぼくを受け入れることができるのか。
玲子の素直で純朴な笑顔が眩しい。
この屋上広場が、ではなく、玲子が今この瞬間ともに紡いでくれている時間は、
泣きたいほどに懐かしかった。
「あゆむ……なんかしみじみだね」
「ああ」
春の霞んだ青空を街のビル群が刻んでいる。
「昔は、あのあたりにちっちゃい観覧車があったよね」
玲子は、今子供が跳ねている辺りを指差した。
「ってゆうか……」
この居心地。相手が玲子でなきゃ感じない感覚。
「ん? なに?」
「いや……」
何でもない。
セピア色に染まってく自分の心模様を、ぼくはうまく伝えられる気がしなかった。
口にしかけた言葉を、ぼくもそっくり春風に預けた。
郊外に 庭付きの家を抑えた。ポーチに置くうさぎの置物をこの前買いに行って、
造園業者にミニ菜園と十種のハーブを注文した。
そんな風に忙しい週末は、彼の赤いプリウスで出かける。昼は自由ケ丘あたりでカフェランチ。
新居の手配であちこち回ったあと、晩はゴルフ練習とか。
つまり、新しいダンナは、わたしになんでもくれるのだ、と、玲子は邪気無く話している。
“幸せ ”という単語までわざわざ使って、あなたと離れた今の暮らしが程良いのだと、玲子は続ける。
「彼は、わたしを拾ってくれた。離婚したばかりで、疲れ果てていたわたしを」
その温かい胸に抱いた。
「髪が抜けちゃって隈もすごかったの」
化粧は面倒。ファッション誌なんて一切読みたい気持ちもない。メアドを変えたら、女友達と疎遠になる。
「でも親の顔を思うと死ぬ気にもなれないでしょ?」
だから玲子はひとりぼっちで生きる覚悟もしていた。
きっかけは、ダンナからのディナーのお誘いメールだそうだ。彼は玲子の新しい派遣先で総務課長をしている。
一部上場企業で将来の約束されたサラリーマンだ。
「はじめは、渇いた女が御趣味かしら? って、疑ったけど……」
玲子の新しいパートナーはすぐに見つかった。
「会うこと」はずっと拒んできた。顔を合わせればどんな気持ちになるのか、おおかた察しがついていたからだ。
「結婚することになったんだ。だから、もう一度あゆむに会っておきたい」
ぼくの心が動いたのは、先々週に入ったそんな内容のメールだった。
「へえ、おめでとう。じゃあ、その前に一度会っとくか……」
と、いつもより返信が敏速だったのも、正直に語れば開封するや否や、キュッと心臓が痛んだからだ。
「あゆむに感謝してるの」
「えっ? 恨んでいるの間違いだろ?」
と、ぼくはおどけた。
そうじゃない。
「たしかに、あなたはわたしを傷つけた。でもね、五年も付き合ってから、やっと結婚に踏み切った時ね、
二人がお互いに果たすべき役割はもう終わっていたんじゃないかなって」
今でも時々玲子の夢を見る。
「なあ……ちょっと後悔してるか? 別れたこと」
忘れたことなんてない。
「ううん。してない」
玲子はきっぱりと答えた。
「そうか……。おれは、すげえ後悔してるぞ!」
目まぐるしくギタギタした記憶が蘇る。
ぼくを抱く男たちの厚顔。
野毛の街角で反吐をはく酔っ払い。
家族のために身体を売る中国女。
凍えて逝ったサミー。
ぼくの知らない男に抱かれる恵美。
と、
「スゲエコウカイシテルゾ!」
近くにいたガキンチョがぼくの大身振りを真似て、ぼくらは肝をくすぐられたかのようにカラカラと笑った。
久しぶりに腹を抱えた、ぼくはそう思った。
「でもいっしょにいた時、楽しかったよな」
「うん……。あなたはあなたなりの仕方でわたしを愛してくれた」
「……」
「わたし、そう信じたい。だから、あゆむは離婚を選んでくれたんだって。最後の日、わたしが今よりも
“幸せ ”になるためだって」
確かにそう、ぼくはゆった。
「玲子……、ぼくたちはこれからもっと楽しくならなくちゃいけないよな」
「……そうだね」
「会うのは今日だけだ」
ぼくはこみ上げてくるものを抑えてそうゆった。隣から涙の温度が伝わって来たけれど。
ぼくのきみが零したそれを、今は気が付かないふりをするのがいい。
なあ。玲子……。
「なに?」
「やっぱり化粧の仕方、変わったよな」
(了)
※最後まで読んで下さり本当にありがとうございました。