玲子と離婚して間もなく、ぼくは恵美と子供を引き取るため野毛に近い丘の上に1LDKを契約した。
「都合がついたら、なるべく早く来て欲しい」
ぼくは恵美にアドレスを伝え、合鍵を渡した。
それから数日後、とつぜん恵美と連絡がつかなくなってしまった。
あれからもうすぐ二カ月が過ぎ……。
煩わしくなって、結婚前から勤めていた仕事を辞める。
近頃は日がな布団を被っているか、男に弄ばれるかで、ようやく呼吸をしている。
時々、湯船にしっぽりと浸かり、夢に出たお爺ちゃんの言葉を思い出しては泣くこともあった。
新しい暮らしが始まってから数週間のうちは、頻繁に玲子からのメールも入っていたけれど
今さら返しはしなかった。
テレビやパソコンは置かなかった。世間とずれ始めた自分が惨めになるのが嫌で、転居を期に
ぜんぶ棄ててしまった。郵便は時々請求書の類が届いた。後はなかった。
今日は梅雨の時期に珍しく晴れ渡っている。もう夏も近いのだ。
ぼくはカーテンを開け、窓を開いた。爽やかな風が吹き込んで、それでまた悲しくなる。
曇りや雨も悲しいが、晴れはいっそう悲しい。
誰もが清々しいと、この空を仰いでいるだろうに。健やかに汗をかき、笑顔の子供と手を繋ぎ、
「おはよう」と、仲間同士が声を掛け合っている。
幸せが陽光に溶けて注ぐイメージは、ぼく独りだけを世界から除け者にした。
悲しくて仕方がなかった。
眼下には恵美と初めて出会い、いま男娼として働く街。
点々と置かれたマッチ箱のような建物は、ぼくの細胞そのものだ。
ぼくはうつらうつらと見下ろしてひたすら泣いた。
ただ、何がそんなに悲しいのかは正直よくは分からない。いまここにいるぼくのぜんぶは、
自分自身が選んだ生の帰趨であることくらい、はっきりとしているからだ。
憂鬱のうたた寝に沈んだぼくは、ずいぶん前に玲子と運んだコンサートの記憶とシンクロして
奇妙な夢を見た。
「このライブ会場に来てくれた、一人ひとりに、あたしたちの最後のソウルを届けるよ」
ボーカリストのYURIは息を整えながら絞り出す。
「今日、あたしたちのドラマが終わる」
この静寂は濁りのない水。ぼくたちの吐く息が無数の泡となって天井の闇に消えていく。
「でも、あたしには見える」
YURIは頭の遥か上の方にある何かにすがりついて訴えるようだ。
「見つけたんだよ、あしたの光を。なあ、オーディエンス!! あなたたちにも見えるでしょ!?」
宇宙に放出する熱線のように、あるだけのエネルギーを込めてシャウトした。
YURIは色白で細くて、小柄だ。その灯火が一見して青白く仄かであっても、
ひとたびステージに上るとどんなパッションをも凌駕するほどに、爆発寸前のエネルギーを貯めこんだ
存在感が累乗して巨大化していく。
「YURI!」
聴衆は無意識のうちに、彼女というブラックホールに牽き込まれてしまう。
「忘れないよ!」
「おれにも見えるぞ!!」
その泡泡は、鮮やかなジェリービーンズみたいに色を変え、パッと散らばって、
あっという間に空中で霧散した。
「じゃあ、やるぞラストの曲!」
ギタリストのKATUYAが気合い十分に絶叫した。
チャイナタウン、香港路の精華飯店。
中二階の角にぽつんと丸テーブルが設けられている。
路地のネオンが映る窓際に落ち着いて、玲子とぼくは小籠包を摘まんでいた。
「この路地のルービーレッド色が好きよ」
玲子がぽつりと呟く。
「ぼくは微かに聞こえる音も好きだ。羽虫が電灯に当たって痺れているようなやつ」
ああ、そうね同感、と、玲子は微笑した。
「ところで玲子はジェシカローズの解散ライブに行ったの?」
「ええ、天井桟敷で見たわ。あゆむは?」
「行ったよ。一階のスタンディング。」
「泣いた?」
一輪挿しのマーガレットが首を僅かに垂れて聞いている。
「泣いたよ。きみは?」
「泣かない」
メロディラインを先導するKATUYAの激しくも繊細なギター。
パフォーマンスを下支えするTAKAOのドラムビート。
そしてYURIの躍動と歌声。彼女はロリータフェイスで人気だが、力強く、
むしろ野太いとさえも評されるボイスで、芯のある、独自のポップロックスタイルを
クリエイトしてきたのだ。
アクションの一秒一秒がフラッシュバックのように流れていく。
ぼくの意識は、虚実と現実の境界をふらふらと漂っている感覚だ。
「 つかんだものをすべて手放すより 壊してしまったほうがいいでしょ?
最高のジュエルが指先から零れたら
砂漠の砂でイヤリングをプレゼントして 」
このリリックが好きだ。
胸が熱くなった。
上下左右、激しく身体を預ける群衆に押し潰されそうになりながら、ぼくは直立して、
静かな涙が溢れ出ることを止められなくなっていた。
「どうして泣くことができたの?」
「切ないからさ。ジェシカの生演奏はもう聞くことができないだろ?」
ふーんと、玲子は物思いに沈んだ顔をする。
「ねえ、切ないって、知ってる? 言葉の由来を」
知らない。
「心が切れるほどの思い」という意味だと、玲子は淡々と続けた。
「彼女たちは過去にしがみつくことを拒んだ。産みだしてきた多くのヒット曲。
それらを演奏し続けなくてはならない束縛からの解放。メンバーそれぞれが、バンド、
つまり『集団』としてのヒストリーと、『個』のビジョンを、未来に向けて繋ぐ
イメージを持つことができたんだわ」
だから、そこには断絶なんてものはないでしょ?
「未来に向いている人たちを見て、わたしは切ないとは感じない。切ないと感じさせて、
永遠にオーディンエスの余情を煽ろうというなら茶番ね」
「……」
ぼくは、小籠包の皮を箸で引き裂いた。淀んだ色の肉汁が小皿の中で広がった。
そう言えば、今夜がぼくたちの最後の晩餐……、
「だっけ?」
「『最後』を強調する必要はないわ」
と、玲子は丸テーブルの縁に頬杖をついた。
二番のサビの歌詞はこうだ。
「 愛したものをすべて手放すより、恋してしまったほうがいいでしょ?
最後のファイルをしまう星のブックシェルフ、
たぶんあなたがまるごとくれたプレゼント ナノ 」
後奏が止む。
「ギター、KATUYA! ドラム、TAKAO!」
YURIがバンドメンバー一人ひとりを紹介する。
そして最後に自分の名前を告げると、深々と頭を下げてそのまま膝から崩れ落ちた。
YURIは嗚咽している。熱の溜まったステージを、漸次冷ましてく激涙。
ジェシカローズというバンドは、この時永久に呼吸を止めた。
精華飯店を後にして、北大路に出る。そこでぼくと玲子はタクシーを止めた。
「じゃあ、出してください」
と、運転手に告げると、車は静かに走り出す。
大路の路傍もまた、赤橙だの、萌黄色だのに染まっている。
ネオンサインから離れて浮遊しているような、色だけの亡霊たち。
「ところでお客様、どちらまで?」
運転手は尋ねた。
「さてどこへ行こう?」
玲子はずっと黙っている。
「ああ、そうか……」
二人で帰る場所はもう無いのだっけ。
「……」
玲子はやっぱり黙っている。
突然、
「わー!! お客様、あれ、あれを見て!」
運転手が指を差した。
「あー!」
するとなんだ。夜空の真ん中に、そこだけ宇宙の端っこと繋がっているかのように
茫漠とした光の穴がぽっかりと開いているのだ。さらにその中心には、北斗七星が燦然と輝いている。
「あれはいったい……」
驚きと気味の悪さのあまり血の気が失せていく。
「ねえ……」
気だるそうに車窓にもたれたまま、玲子がつんとぼくの袖を引いた。
なに?
「昔から星座に興味はないの。あなたに捨てられたわたしは、もう死にたいわ」
(5)に続く