アロマオイルの在庫表が、鍋底のカレーみたいに無残に固まってしまっている。
さっきエクセルで作ったばかり、わたし、保存してない。
「ダレル! うるさい! ちょっと静かにして!」
ソファーに寝転び、携帯ゲーム機で遊んでいた長男に叫ぶ。
「はーい……」
消音にしてるってゆうけど、そうじゃない。あんたがボタンを連打する音に苛つくの。
「ねえっ!」
ダレルはしれっとして、乱れ打ちをやめようとしない。モンスターなんとかってゆう、
世の中に必要悪なそれ。わたしが仕事に出るときは素晴らしい子守り役だけど、
今すぐ憎ったらしいDSごと叩き折って、ブランブランにしてやりたい。
「ちょっと!」
息子は全く意に介さず、パドリング姿勢で親指を小刻みに震わしている。
向かい波に興奮の雄叫びをあげるように、ダレルは歓喜する。
「来たー」
と。
「ダレル!」
波打ち際からライフセーバーが過剰なピーピーを喧(かまびす)しくやるように、
わたしは彼の褐色の足首を引っ張った。
「もうちょっといいじゃん」
まだベッドに入るまでには時間あるでしょう? って。
引かれる後ろ髪さえばっさり落とした愚息は、知らん顔して沖のブイを越えていく。
マジ、ふてぶてしい。 とにかく苛つく。 もうたまんない。
「イテッ!」
右平手を尻に一発。小さな悲鳴を上げ、ダレルはわたしをぎゅっと睨んだ。
その目玉がフィリックスにソックリなの!それにまた腹が立つ。ってゆうか、ぞおっとする。
とにかくその小顔を無意識に退(の)けたくなって、抑えの利かない前腕は鞭のごとくに撓(しな)る。
今度は四五度から頬に直撃。
ダレルはゴロリとソファーから落っこちる。
操縦士を失ったモンスターなんとかはダッチロールを続け、虚しいゲームオーバーの点滅が
ほどなく始まった。
息子は格好の大波に乗り損ねたサーファーのように、ぼーぜんと口を半開きにさせている。
憎々しい。アメーバのようにブヨブヨした、得体分からぬ狂気が憑依する。
今度は “グー ”。
幼いダレルは健気に防御姿勢をとるが、ホットミルクに出来る膜を打ち抜くようなもん
ダレルは呻き声とともに大粒の涙を溢し始めた。
「ママやめて!」
情けなくなる。男のくせに。
「もう……」
ゲームは、「お願い!」、やめるから許してよ、的(てき)な哀願。
「誰のためよ?!」
ほら!
ゆってみろ!
「ぼくだよ、ぼくのためだよ!」
「でしょ?!」
ママが頑張ってるのはね、あんたを育てるためでしょ?
「なのに、あんたは!!」
と、何度も何度も振り下ろす。
「ママが仕事を頑張ってるのはねえ!」
あんたのた……、ん? いや、ちょっと違う……。
わたし、か?
わたしの、ためか?
あああ、そうか……。
わたしのため、か?
「どうして突然そう思ったんです?」
ケースワーカーの中上(なかがみ)さんはバインダーを閉じてそう尋ねた。
バインダーの背には、忌々しいテプラの背表紙シール。例によってチラチラと気持ちを挑発してくる。
『ドナリ―・竹田(たけだ)咲(さき)恵(え)、ドナリ―・竹田ダレル 親子 事件・秘匿情報』
なんだ、『事件・秘匿』って? 癪に障る。
お天道様に隠れた雑居ビルで、ケシの花かなんかを栽培してんじゃあるまいし。
中上さんは、静かに眼鏡を外した。薄桃珊瑚色のルージュが控え目な印象で、
わたしは彼女に悪い印象を持っていない。
「どうしてです?」
と、もう一度うぶ毛を撫でにくる。
「ええっと……」
まだ二度目のカウンセリングだってゆうのに、すでに親しみさえ覚えたのは、
年齢が自分とさほどかけ離れていないことと、その地味な見た目からだった。
従順を装う文鳥は、小さく首を傾げてみせる。
「まだ七月のカレンダーをめくってなかったから」
と、ぼそぼそ答えて、みる。
「それが?」
「あの……七月の写真はエアーズロックなの」
「オーストラリアの?」
「そう」
わたしはまだあそこに行ったことがない。
「それで?」
「八月の写真はインドのタージ・マハルだって分かっていた」
わたし、その場所には行ったことがあるの。
「まだ旅をしてみたいところって、たくさんあるんだよなあ……」
と、わたしは宙を仰いだ。
「お子さんのためじゃなくて、そのために仕事をしていると?」
表参道のCDショップ。
黒いのが、隣の試聴ブースでステップしている。
「なんだ、このネグロイドは?」
怪訝な視線を注いだら、
「YAH!」
チョコレートのような笑顔を返されたんだっけ。
「ねえ、今晩踊りに行かないデスか?」
変なのに目をつけられたな……。
「ぼくは、フィリックスといいマス」
いや、聞いてないし。
グナワ・ディフュジオンとゆうフランス人バンドのCDを買い終え、
(新手の黒人ナンパ師……、鬱陶しいわ)
と、地上に続く出口階段へ、そそくさと急ぐ。
踊り場に電話中の女の子が一人。ハイビスカスの髪飾りを付けている。
「ORANGE RANGE~『ロコモーション』NOW ON SALE!」
だっけ、その頃流行ってたグループのポスターの前で。それを横目にしながら顎の上がってる、わたし。
ぬるまっこくってスーパーヘビーな空気に、今にも押し切られそう。
ゲリラ豪雨の直撃で、メトロに誘(いざな)われる濁流みたいなの。
わたしはまるで水面に口を開ける魚だ。萌え立ちの枝間を縫って清々しい風が
吹いた表参道の春が、あああ、懐かしい。
ギンギンのお日様は、女子たちが闊歩する歩道をひたすら蒸し上げていく。と……。
こりゃあ、面倒くさいわ!
とば口の眩い光の中に、太陽黒点がわたしを待ち構えていた。
「やあ、また会いマシタ!」
ったく、望んでない。
表参道を青山通りの方面にせっせと上る。フィリックスは必死な蚊みたいに離れない。
わたしはAB型だから美味しくないのよ、ってゆってやりたい。
気を惹こうとして「シカゴのダウンタウンから来マシタ」って、格好をつける。
わたしが「アメリカには興味ないの」とゆえば、「じゃあ、ケニア デス」
本当は、ぼくケニアで国連の仕事をしていマス、って。
国連大学が近いから、
「そういうアレの人?」
と、尋ねたら、
「君、面白いこといいマスネ。国連に大学があるナンテ」
と笑うから、本当に馬鹿。
突っ込んでやると、結局、「ガーナ共和国出身・ばがぼんど」だと白状した。
「ばがぼんど 、って?」
わたしとフィリックスの馴れ初めを穏やかに傾聴していたけれど、中上さんは、
耳慣れない言葉の意味不通を嫌う。
「英語で『放浪者』ってゆう意味ですよ」
と答えてあげたら、中上さんは「はい」って頷いていたけれど、心得た、って様子でもなかった。
代わりに、
「フィリックスさんの軽快さとマッチした語感だわ」
とかなんとか、あんまり意味の分からないことをゆって、勝手にほくそ笑んでいた。
「ここでランチをしないデスカ?」
と、フィリックスは悪びれる色もなく、表参道のマックを親指で指す。
結構です。
「今、バイトの昼休みなの」
「ぼくが奢りマス」
わりーけど、わたしはベジタリアンなのだ。
「じゃあ、ぼくがパテを入れないでと頼みマス」
ピクルスとレタスのサンドを食べよう、って。
「マヨネーズもいただけない」
と素っ気なく返したら、
「ピクルスを多めにしてもらえばいいデスカ?」
あれはソルティだ、って。嬉しそうに手を引くのが強引なの。
今様(いまよう)にゆえば、KYってこと。
「それで、本当にピクルスサンドを注文したのかしら?」
「本当にした。でもレジの女の子は頼まれてくれなかったわ」
中上さんは笑った。わたしも笑った。
で、恥ずかしげもなくそんな無理筋な申し出をしてしまう彼を、正直ちょっと可愛らしくも感じられたんだ、
と、漏らすと、中上さんは、
「分かる気がする」
と頷いた。
「あの頃、わたしは恋人と別れたばかりだったし……」
(2)に続く
