【以下ニュースソース引用】

珠玉の名城!秀吉が築いた総石垣の城・第1号 石垣山一夜城

ARTS & CULTURE

 

石垣山一夜城の井戸曲輪(くるわ)=神奈川県小田原市
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    萩原さちこ

     城郭ライター

    小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。 …

 

石垣山一夜城(神奈川県小田原市)は、何度訪れても心揺さぶられる関東屈指の名城だ。

 

関東には珍しい、巨石を積み上げた高石垣が城域全体を取り巻く総石垣の城である。

 

“石垣が見事な城”と聞いて連想するのは、西日本の城が中心ではないだろうか。

 

高い石垣で囲まれた城は、西国で生まれ西国で発展する。残存度が高いのではなく、そもそも西日本に多く分布するのだ。

 

高い石垣で囲まれ天守が建つ、いわゆる “一般的にイメージされる城” は、織田信長が開発し、秀吉、家康へと受け継がれた。

 

中世の城にも石垣は存在するが、信長や秀吉によって統一政権の象徴の一つとして城の必需品となったといえるだろう。

 

信長や秀吉の城を実際に見るか築くかしなければその存在すら知らず、立派な石垣はどこかで必ず織田・豊臣政権と関わりがあると言っても過言ではない。

 

南曲輪の高石垣
南曲輪の高石垣

度肝抜く城 小田原攻めで一夜にして出現?

石垣山一夜城は、1590(天正18)年の小田原攻めの際、秀吉自身が築いた本陣だ。

 

小田原城(神奈川県小田原市)に籠城(ろうじょう)する北条氏を包囲する大軍ごと見下ろすように、小田原城からわずか3キロほどの笠懸山に築かれた。

 

秀吉は小田原城から見上げれば必ず視界に入る場所に、東国の人々にとっては未知すぎる城を築いたのだ。

 

 

秀吉は、豪壮な天守も建造した。

 

もちろん、東国の人々にとって天守もはじめて目にする高層建造物だったはずだ。

 

わざわざ西国から石工を呼び寄せて石垣を積み、前代未聞の天守まで建造。

 

秀吉の本陣とはいえ、支配拠点でもない臨時の前線基地には必要のないハイレベルの城だった。

 

奇想天外な城の出現は、さぞかし北条方の度肝を抜いたに違いない。

 

『北条記』にもその反応が記され、この城の存在が降伏の決定打の一つになったとされている。

 

南曲輪と東曲輪の間の通路
南曲輪と東曲輪の間の通路

 

石垣山一夜城というロマンあふれる俗称は、築城時のエピソードに由来する。

 

秀吉は、完成と同時に樹木を伐採させて一夜のうちに城が出現したように見せる、というとんでもないパフォーマンスをしたと伝わるのだ。

 

塀や壁には白紙を貼って白土を塗ったように見せかけ、これを見破った伊達政宗に秀吉や諸大名が感服した逸話も残る。

 

敗色が濃厚となり厭戦(えんせん)ムードが高まる中、見たこともない石垣や天守を目にした北条氏の心情は察するに余りある。

 

財力と権力、余力の差を否応(いやおう)なく見せつけられ、驚きよりも失望のほうが大きかったに違いない。

 

二の丸から見下ろす小田原城
二の丸から見下ろす小田原城

4万人動員し突貫工事 北条方への優位見せつけか

もちろん、いくら秀吉であっても一夜でこれだけの城を築くなど不可能で、実際には約4万人の動員数で82日ほどかかっている。

 

ただし、大坂城が本丸だけで1年以上を要していることを考えると、かなりの突貫工事だったことは間違いない。

 

この城はいわば秀吉の分身でもある。これだけの豪壮な城を短期間で完成させられることが重要だったのだろう。

 

秀吉は在城中に、天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、側室の淀殿まで呼び寄せたりして、茶会や宴会を開いては優位であることをアピールしたといわれる。

 

北条方に精神的ダメージを与えながら、いくらでも長期の兵糧攻めが可能なことを示したのだろう。

 

同時進行で、小田原城に兵糧が運び込まれないよう厳重に監視しながら、領内の支城をひとつずつ潰していったのだった。

 

二の丸と、本丸の高石垣
二の丸と、本丸の高石垣

400年の時空超えて残る穴太衆の技術

崩れかけてはいるものの、現在も城内には総石垣の城の姿がほぼそのまま残る。

 

文書によれば、秀吉が石垣を築かせたのは、近江坂本の穴太(あのう)衆。穴太衆といえば、信長に重用され後にカリスマとなる石工集団だ。

 

すべてではないにせよ、穴太衆が天正期に築いたすばらしい石垣が、400年以上の時空を超えてこれほど広範囲に生き残っていると思うと、心が震える。

 

全国的に希少ともいえ、関東の誇りだ。

 

関東最古の野面積みの石垣は、突貫工事で築かれたとは思えないほど頑丈だ。

 

さすがは天下人の座に王手をかけた秀吉の、最高峰の技術力に感服する。

 

小田原城の石垣は、江戸時代に積まれた上に関東大震災でほとんどが崩れている。

 

これに対して石垣山城の石垣は、紛れもなく1590年モノ。

 

それにもかかわらずほぼ原形をとどめているのは、やはり技術力の差なのだろう。

 

南曲輪の石垣
南曲輪の石垣

 

城は、南北方向に走る尾根を軸に、城域の最高地点に本丸を置き、その南端には天守台が配されている。

 

天守台には瓦葺(ぶ)きの天守が建っていたようだ。本丸の北側には二の丸、その北東側に北曲輪(くるわ)や井戸曲輪などを配置。

 

井戸曲輪の西側に設けられた櫓台跡からは、東海道を見下ろせる。

 

本丸の南東側には南曲輪など小さな曲輪群が置かれ、その西側には西曲輪、さら大堀切を隔てて出城が置かれている。

 

注目は、虎口が枡(ます)形虎口であることだ。

 

とくに、二の丸から本丸に上がる北門の跡は、外枡形と内枡形をセットにした二重枡形虎口で、織田・豊臣系の城の特徴を表している。

 

北門跡
北門跡

全国屈指の壮大さ! 必見の「井戸曲輪」

最大の見どころは、二の丸北東側にある井戸曲輪だろう。

 

全国、いや世界でいちばん見ごたえがあり美しい井戸曲輪ではないだろうか。

 

もともと沢のようになっていた地形を利用し、大小の方形スペースを設けたような段違いの空間を、高石垣を堰として囲み貯水している。

 

井戸は二の丸から25メートルも下がった場所にあり、なんと現在でも湧き水が確認できる。

 

全国でもほかに例のない独特な構造は一見の価値あり。

 

これは、本当に必見だ。

 

珠玉の名城!秀吉が築いた総石垣の城・第1号 石垣山一夜城
井戸曲輪

 

近年は小田原市により城内の木々が間伐され、見ているこちらが恥ずかしくなるほどに城の姿が顕(あらわ)になっている。

 

「こんなにも総石垣だったのか!」と、感嘆せずにいられない。

 

中心部から離れた曲輪まで、豪壮な石垣が抜かりなく積まれている。

 

井戸曲輪の周辺も木々のヴェールがはがされ、ただ井戸を囲むように石垣を積み上げたのかと思いきや、かなり驚異的な設計の曲輪と判明した。

 

想像以上に大胆な構造だとわかり、興奮するばかりだ。

 

周囲の木々が取り払われたことで、小田原城方面に突き出すような設計であることも一目瞭然となった。

 

驚嘆したのは、曲輪の内側だけに積まれているように見えていた高石垣が、北面と東面北側は外側にも積まれていたこと。

 

本丸北側の10メートル超の高石垣とともに、小田原城からは強烈な二枚壁のように見えていたのだろう。

 

さらに、小田原城方面に続く尾根上にいくつも曲輪が続いており、その広大さと土木量、石垣の膨大さに改めて驚愕(きょうがく)した。

 

井戸曲輪
井戸曲輪

眼下に小田原城 相模湾まで一望

本城曲輪より西南に張り出した天守台が最高地点で、標高は261.5メートル。

 

瓦葺きの立派な天守が建っていたようだ。本丸の展望台をはじめ二の丸から、現在でも小田原城を見下ろすことができる。

 

眼下には小田原城や城下、足柄平野や相模灘、遠くには晴れていれば三浦半島や房総半島も望める最高の立地。

 

北条氏が自信を持っていた小田原城の総構を見下ろせるどころか、相模湾まで一望できてしまう。

 

小田原城を完全包囲する大軍勢の配置まで見渡せ、秀吉はさぞかし優越感に浸っていたことだろう。

 

西曲輪から見上げる、本丸の天守台
西曲輪から見上げる、本丸の天守台

 

(この項おわり。次回は7月15日に掲載予定です)

 

#交通・問い合わせ・参考サイト


石垣山一夜城 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/park/ishigaki-p.html(小田原市)

フォトギャラリー(写真をクリックすると、詳しくご覧いただけます)
石垣山一夜城の井戸曲輪

珠玉の名城!秀吉が築いた総石垣の城・第1号 石垣山一夜城10

 

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