【以下ニュースソース引用】

精神科医も悩む「患者本人が望まない入院」の問題

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東洋経済オンライン

強制入院の問題は精神科医も悩んでいる(写真:metamorworks/PIXTA)

 

精神科医でありながら、詩壇の芥川賞とも呼ばれるH氏賞受賞の詩人としても活躍する尾久守侑先生。

 

 そんな尾久先生による、ユーモラスで大まじめな臨床エッセイ『倫理的なサイコパス:ある精神科医の思索』より一部抜粋・編集し、3回にわたって掲載します。

 

 第3回は、「患者本人が望まない入院」についてのお話です。

 

 ■医療ドラマを観ない理由

 

  基本的に医療ドラマは観ないし、医療をテーマにしたドキュメンタリーとかもあまり観ない。医者になる前はそうでもなかったのだけれども、医者になってからは特に顕著で、表面的には家に帰ってまで医療現場のことについて考えたくない、ということにしていたのだけれども、よくよく考えてみれば、私は家に帰ってからのほとんどの時間を文筆の作業をする時間に充てており、そのうち半分くらいは医療に関する内容である。家に帰ってまで考えたくない、などというのは明らかに気のせいである。

 

 もう一つ表面的な理由があるとすれば、医療ドラマとかを観ていると粗探しをしてしまうというか、どうしても変なところが目に入ってきてしまって、そのことばかり気になってしまう、というのがある。

 

「先生、目を覚ましました!」「もう大丈夫!  ミサキさんは助かったんです! 〈壮大なバラード曲〉」みたいなくだりも、ドラマ上の演出であると思えばいいのだが、どうしても単に鎮静を切っただけではないか、とか、モニターをみる限りはずっとバイタルは安定しているようだが……みたいなことがノイズとして頭に浮かんでしまって集中できない。

 

 とはいえ別に医療ドラマでなくとも、多くのドラマで病院のシーンというのは出てくるし、それだけが医療ドラマを観ない理由とは思えない。

 

もっと核心的な理由がある気がする。

 

   同じような感覚になるもの、というのを考えていくと、話題になっている医療ネタというものもあまり見たくない気がして、なるべく見ないようにしている。

 

それは、Twitterにいる医師たちの間で話題になっているニュースとかもそうだし、コロナくらいの規模のものについてもそうである。

 

コロナについては発信はもちろんしないし、受信も必要最低限にするようにしていた。

 

 Twitterで医師に話題のニュースに至っては見たくなさすぎて、知り合い以外でタイムラインに流れてくる医者のアカウントの大半をミュートにしているくらいだ。

 

 ■“感想の洪水”を無意識に避けている

 

  考えてもみると、医療ドラマやドキュメンタリーも、内容そのものが嫌というよりも、放送と同時に流れてくる諸々の感想をみるのが嫌なのかもしれないと気がつく。

 

医療ドラマや医療ドキュメンタリーを観ないのは、単にほかに観たいドラマをネットフリックスで観たり、サバイバルオーディション番組を観るのに忙しいからで、それだけであればあえて観ないという行動はとらない。

 

私はあの感想の洪水を無意識には避けている。

 

 なにか分からないけれども、医療コンテンツが医者なり一般人にあれこれ言われているとき、なぜか自分が批判を受けている感覚になる。

 

何か、言い訳や弁明をしないといけない気がしてくるのだ。

 

おそらくそれはTwitterでなにやら述べている医師なども同じで、弁明しないといけない感じがするから弁明しているのではないかと思うのである。

 

  例えばドキュメンタリーで医療訴訟の問題をやっていたとすると、私自身は訴訟を受けたことはないけれども、訴訟の種のようなものは毎日毎秒そこいらじゅうに散らばっており、毎度なんとかかわしにかわして生きているわけで、一つ判断を、あるいは言葉を間違えば糾弾される側という感覚が常にある。

 

だから、訴訟が取り上げられ、例えば担当医師の対応がまずかった、みたいな話で一般の人や医療者が槍玉にあげているのをみると、なにか自分が批難されているような気がして、心の健康に良くない。

 

 つい先日は、精神科医療のドキュメンタリーがあったようで、ミュートしてもミュートしてもその話がタイムラインに流れてきた。

 

定期的に話題になる強制医療の是非の話で、とくに話題になったのは強制医療の是非云々の話以上に、論外なレベルの扱いを患者さんに対してしていた病院の話らしい。

 

  いま論外な強制医療と述べたが、では、論外ではない強制医療とはなんなのか。

 

精神科病棟では、強制入院が法的に定められている。

 

措置入院という行政が決める強制入院に加え、医療保護入院という制度がある。

 

医療保護入院というのは、病院の精神保健指定医と患者の保護者との合意で患者を入院させることのできる制度である。

 

 これは、患者がまったく同意をしていなくとも入院にできるため、強制入院、もしくは非自発入院などとも呼ばれる。

 

かなり多くの患者さんが入院のときに「人権侵害だ!」と言うのだが、実際ふつうに考えれば人権侵害である。

 

しかし、この人権の制限は精神保健福祉法によって定められている。

 

 ■強制入院が成り立つ事例

 

  どういうときにこの強制入院が成り立つのかといえば「入院治療の必要があるが、患者が同意できないとき」である。

 

例えば統合失調症の幻覚妄想状態で、幻聴に命令されて全裸になってセンター街を走り回ったり、正体不明の諜報組織に付け回されているという妄想があり、道ゆく人に「知ってるんですよあなたたちの狙いは!」などと言って回っている場合、これは多くの場合入院治療の必要がある。

 

しかし、患者さんには病識がないことが多い。

 

つまり、自分の考えていることが妄想であるとか、耳に聞こえてくる声が幻聴であるという認識がないため「病気なので入院しましょう」などと医者に言われても、ピンとこないのである。

 

 一方で、抗精神病薬を使用すると、それなりの数の患者さんから妄想がなくなり、社会復帰ができたりするため、当然この病気を治してほしいと家族は思うし、医者も治したいと思う。

 

そのために、この強制入院のシステムが存在している。

 

  しかし問題は、本人の意にそぐわないことをしているということである。

 

 当然、「病気」が改善した後に話を聞くと、あの時は私はおかしかった、と話すので、この治療はやった方がいいよな、ということになっているわけである。

 

一方で、全員が全員納得するわけでもない、というのが難しいところで、例えば躁状態の人とかはすごく難しい。

 

 多弁で考えが次々に浮かび気が大きくなって寝ないでも大丈夫で一日中活動しまくっているような状態を躁状態というが、そういう人に「入院しましょう」というと、大抵断られる。

 

これが私の本当の姿なのだと主張したりする。

 

外からみていると明らかに周囲とぶつかりあっているし、現実的にトラブルを起こしまくっているので、医療保護入院になり治療がされるわけだが、患者さんの話は全部ではないが一部は納得できてしまうところが必ずある。

 

 双極症(躁うつ病)というのは、特に理由もなく躁状態とうつ状態を生涯で繰り返す病気である。

 

その背景には生物学的基盤、つまり、脳の生理学的・生化学的異常があると言われており、言ってしまえば将来的には神経疾患の一種として扱われる可能性があるであろうというのが、近年の精神医学的なものの見方である。

 

なので、躁状態だ!

 

 と思ったら話をあれこれ聞いたりするよりもとりあえず薬を投与するのが第一選択の治療となっている。

 

 一方で、躁状態というのは心理的にも出現することが知られている。

 

例えば大変落ち込むような状況になった人が、かえってハイテンションになっていろいろ活動しだすような場面は見たことないだろうか。

 

これは躁うつ病になったというわけではなく、そういう心の動きである。

 

 ■「病気」と「心」どう折り合いをつけるべきか

 

  しかし、生物学的な躁状態、つまり躁うつ病の躁状態にあると思われる人も、話を聞いているうちに、なぜこの人は躁状態にならざるを得ないのか、ということが理解できるようになったりすることがある。

 

そういうとき私は「病気」ではなく「心」を見ているわけだが、一方で間違いなく「病気」の部分もあって、薬を飲まない限りはある程度以上は改善しないであろうと分かる部分もある。

 

一方で、それは本人には理解されないので、本人の意にそぐわない投薬をしない限りいつまでも改善しないという状況が生まれる。

 

 医療の一般常識としては、やはり明らかに病気の部分は放置しておかずに強制介入するのが予後が良いわけだが、何十人かに一人くらい、あれ、これは本当に強制介入するのがいいのか……と思う人がいて、そういうときは慎重な判断が必要になってくる。

 

  また、「心」をみずに「病気」のみをみて投薬すればその場での症状は改善するが、落ち着いたあとの診察では、「病気」をみるだけではなく「心」をみないと再燃しやすい気はしている。

 

強制医療は法的なものなので「病気」の側面で議論されるが、「心」の側面をみていると、どう折り合いをつけるべきか、ということでいつも悩んでしまう。

 

 この辺りの日常的な罪悪感と、医療の話題を見たくない感じは結びついているのだと思うが、おそらくスパッとできないものではあるので、いつまでも悩み続けているのが正解なのかもしれない。

 

尾久 守侑 :精神科医、詩人

 

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