【以下ニュースソース引用】

教員14年目の休職。台所に立てる日も立てない日も、今日を生きる〈300〉

LIFE

 

大平一枝

大平一枝

 文筆家

長野県生まれ。市井の生活者を独自の目線で描くルポルタージュコラム多数。著書に『ジャンク・スタイル …

 

本城直季

本城直季

 写真家

現実の都市風景をミニチュアのように撮る独特の撮影手法で知られる。写真集『small planet …

 

 

〈住人プロフィール〉


37歳(小学校教員・女性)


賃貸マンション・3LDK・西武池袋線 東久留米駅・東久留米市


入居7年・築年数33年・夫(39歳・会社員)、長女(8歳)、次女(4歳)との4人暮らし

 

 賃貸マンションの階下の家が火事になり、家中煤(すす)だらけになった。

 

室内、壁、ソファ、自分の洋服。なにをしても燻(いぶ)した臭いがしみついて、とれない。

 

煙害は保険や弁償の対象にならず、耐えきれなくなって急きょ、自費で転居した。

 

7年前のことだ。


 当時1歳の長女を抱えた共働きで、彼女は小学校教員に復職していた。

 

物件を比較している時間がなく、内見2軒で決めたという。

 

 「古いですが、急いで決めたわりには明るくて、カウンターキッチンもある。料理をしながら家族の様子が見えるので気に入っています」


 ダイニング側のカウンター下には、大小の紙袋が四つぶら下がる。

 

菓子、薬、文具などを分類。大きな家具はなるべく持たず、紙袋は汚れたら取り換える。


 大きな食洗機は、あえて上にものを置けるタイプを選び、ふだん使いのマグを並べる。

 

シンク横の壁には、100円ショップの使い捨てのビニール手袋をセットし、皿洗いのたびに取り出せる。


 収納の工夫があちこちに見える台所だが、今も時々ここに立てない日があるという。

 

 「長女の授乳をきっかけに、摂食障害が始まりまして。

 

いっとき、料理をする気力を持てない、起きられない日もありました」

 それでも育児と教職を両立させながら7年頑張ったが去年夏、とうとう休職した。


 「早く戻りたいと焦る気持ちと、体調は気候や気圧でも変わって波があるのでまだ踏み切れない気持ちと。今は両方が入り混じっています」

 

 ハキハキした明るい口調、艶(つや)のある長い髪に大きな瞳。

 

どんな服も似合いそうなスレンダーな体形は、けして痩せ過ぎではない。

 

8年も摂食障害と戦ってきた人とは思えず、見た目でわからないこの病気の難しさの一端を、垣間見た気がした。

 

教員14年目の休職。台所に立てる日も立てない日も、今日を生きる〈300〉

小学校教員の、やってもやっても仕事が終わらない毎日

 学生時代は今より20キロ多く、帰省のときに親に「太ってる」と言われたことが長く心に引っかかっていた。

 

 長女に母乳を与えていると、自然に体重が落ちた。


 痩せるのが快感になり、職場の給食をのぞいて、自宅では決まったものしか食べなくなった。


 冷凍ブルーベリー、キャベツの千切りにゼロカロリーのドレッシングをかけたサラダ、グリコのアーモンドミルクがそれだ。


 半年で10キロ落ちたが、生理が止まった。

 

再び太るのが怖くて食べられない。

 

遅く帰宅する夫とは食事時間が別のため、気づかれなかった。

 

 「子どもの離乳食は、“大丈夫?”と人から心配されるほど、ストイックにこだわっていました。だしをとって、魚はさばくところから。仕事から帰るとすぐ台所に立って、ブレンダーで茹(ゆ)で野菜を潰して。でも、自分はカロリーの低いものだけを食べるのです」

 

 7時15分に家を出て、学校は15時45分までの時短勤務に。

 

しかし、仕事は終わらないので、家に持ち帰る。子どもになにか話しかけられても、上の空になりがちだった。


 「保護者からのクレームや要望があると、抱っこしながら、あやしながら、お風呂に入れながら、料理しながら、頭の隅でずっとその対応を考えています。なにか娘に聞かれても、つい“ちょっと待ってて”って言ってしまうんですよね。そういう自分にだんだんジレンマがつのっていきました」

 

 仕事もできていない。

 

子どもとも向き合えていない。

 

何もできていないじゃないか私は。

 

自分を責める日が続いた。


 なにごともつい頑張りすぎてしまうタイプ、と自己分析する。

 

「職場には、意識が高くなく、仕事ができない人もいる。すると、評価の高い人にどうしても任務が集中してしまうのです」


 産後復帰して5年目には管理職を任せられ、ますます多忙を極めていた。

 

 「教員って社会を知らないというか、新しいことをしたがらないんですよね。たとえばタブレットやエクセルや新しいアプリ。いまだにセキュリティーがどうのと言って、大半が紙ベースです。でも市町村などの公的機関にはメールやデータ化して提出します。つまり様々な作業に、二重の手間がかかるのです」


 前述の通り、親からの要望も年々増す一方だ。


 夫も、料理や家事をやる。

 

だが時短で早く帰ることができる彼女のほうが圧倒的に、育児を担う時間が多い。

 

 2023年6月のある日。


 過呼吸と肋間(ろっかん)神経痛で、うつぶせのまま起きられなくなった。

 

おおごとにしたがらない彼女に、「それ普通じゃないよ!」と夫は叫び、救急車を呼んだ。


 診断は、適応障害だった。


 家族と同僚、両方に申し訳ない気持ちで休職を申し出た。

 

教員14年目の休職。台所に立てる日も立てない日も、今日を生きる〈300〉

自分を強制的にリフレッシュさせる機会づくり

 日中、宿題を見られる幸せ。3色そぼろ丼にする気力がなく、肉そぼろと玉子の2食丼でも「ママの料理、おいしい!」と、満面の笑みで子どもたちに言われたときのありがたさ。


 子どもの食へのこだわりはとうに手放し、状況に応じて冷凍食品やレトルト、ファストフードのテイクアウトも利用するようになった。自分も家族も笑顔になれるならそれでいい。

 

 初めてしみじみと、ゆったりした時の流れから生まれるささやかな喜びを実感している。

 

しかし、体調によってはそう思えない日もまだある。


 とくに今年の2、3月はひどかったという。

 

 「家から1歩も出られませんでした。夜は悪夢で2時、3時に目覚めてそのまま寝付けない。せっかく休ませてもらっているのに、ちっとも良くなってないじゃないかと、つらく思うこともありますし、何も楽しいと感じられない日もあります」

 

 5月、妹の結婚式のためひとりで遠出をした。忘れかけていた旅の楽しさを思い出し、落ち込みから抜け出すきっかけになった。

 

 夫は、新婚時代から、頑張り屋の彼女が煮詰まっているのを見ると「どっか行ってきたら?」と、絶妙のタイミングで声をかける。


 海とショッピングと旅行が好きな彼女に、1泊でもいいから好きなところに行っておいでよ、と。

 

 「仕事をしていたときから月に1度くらい、都内のラグジュアリーなホテルにひとりで泊まるのがリフレッシュになっていました。近々またひとりで都心のいいホテルに泊まりたいですね」

 

 妹の結婚式もそうだったが、ホテルや旅行のいいところは、前もって予約するため、強制的にリフレッシュの機会になることだ。


 穏やかな表情で彼女はこう語る。

 

 「この休職中の課題は、私自身が家族以外で好きなもの・ことを見つけることかもしれません」

 

 最近は、参鶏湯(サムゲタン)や手羽元の煮込みをよく作る。好きな音楽を聴きながら黙々と料理をする時間も、小さなリフレッシュになっている。

 

 その後、摂食障害のほうは。


 「気づいたら自然に食べていて、症状が収まっていました。自分を表すのは、体重やカロリーじゃないんですよね。数字だけを気にしていると、簡単に自己否定につながってしまう。ちょっと危険だなと思いかけたら、夫に聞きます。“私、太ってない?”、彼は“太っていないよ”。“じゃあいいや”って、ほっとする。おかげで食事量が安定してきました」

 

 職場で心身を壊してしまったが、いっぽうでかけがえのない気付きもたくさん得ている。


 「お子さんの病気とか反抗期とか、子育てに苦労されている親御さんをたくさん見てきました。私の苦労なんて足元にも及びません。娘たちは、風邪ひとつ引かず、なんとかのびのび育ってくれている。それだけでありがたいですし、逃げずに一生懸命向き合っている親御さんたちの姿から、学んだことはとても大きいです」

 

 小学校で英語の授業が導入されて久しい。それに備え、日中は英語をオンラインで勉強している。


 「じつは全然喋(しゃべ)れない教師も多いので。自分が喋れるようになった状態で教えたいです」

 

 倒れてもなお、職務の向上を考え続けている。


 彼女のように、たった今、部屋や台所のどこかで、教壇に立ちたくても立てない、ままならぬ時間を過ごしている教職者は、どれだけいることだろう。


 苦しんだ時間がきっと生かされる日が来ると、祈るような思いで彼女の台所を見つめた。

 

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