【以下ニュースソース引用】
「発達障害かもしれません」認知症の義母の「謎行動」医師が伝えた「謎」の理由
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母の日という言葉とともに「母へのギフト」「母への感謝」という言葉が並ぶ。
しかし、親子でも心から「ありがとう」と言える関係ばかりではない。
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義母の謎行動にずっと悩まされてきたというのが、上松容子さん。
その詳細は2020年12月から2021年11月にわたって連載していた「謎義母と私」の記事で率直に綴っていたが、2023年の年末天国に旅立ったという。改めて義母との生活をふりかえり、気づいたこととは。
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容子 20代後半で結婚。現在50代 夫・K 容子と同い年。営業職 娘・A 容子と夫の一人娘 実母登志子 昭和ヒト桁生まれ 元編集者を経て専業主婦。認知症で要介護2 義父 東京近郊在住 大正生まれ 中小企業社長 義母トミ子 昭和ヒト桁生まれ 元看護師 専業主婦。数年前から認知症の傾向で2021年に要介護1認定
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亡くなった「謎義母」との暮らしを振り返る
2024年に入って間もなく、義母トミ子が亡くなった。誤嚥性肺炎を起こし、悪化した末の死だった。
結婚当初から私はトミ子の謎の行動に悩まされてきた。
結婚のあいさつの日、私が仕事をしていることを受けて夫のことを「あの子は甲斐性がないのか」と言っていたのが最初の出会いだった。
結婚式に自分たちの出番がないことを「自分勝手」と面と向かって言われ愕然としたこともあった。
驚きながらも義母はそういう価値観なのか、と思っていたが、毎日使い終わったすべての鍋にラップをしなければならないという不思議なルールなども目の当たりにしていく。
次第に謎の言動ばかりであることにとまどうようになった。
孫である娘の明子が幼児のとき話しかけても無視されて泣いたこともある。
義父ががんで亡くなった時の冷淡な態度にも驚かされた。
さらに、義父亡きあとに同居をするようになると、謎行動は加速度を増した。
お昼ご飯を作るよう急に頼まれ、仕事に行く直前に慌ててミートソースパスタを作ったが、私が帰宅すると出したままになっていることもあった。
なんでも食べると言っていたが、「ミートソースパスタは好きではない」のだという。
「うちがのぞかれている」と騒ぐこともあり、認知症の認定を受けるようになる。
「発達障害だったかもしれませんね」
医師の言葉にハッと気づかされた Photo by iStock
病院に行って医師に罵詈雑言を吐いた際、医師から「発達障害だったかもしれませんね」という言葉を受け取る。
出会った当初から謎の言動が多かったゆえに、さらに「認知症になったから不思議な言動をするのだ」ということに気づかなかった。
しかし出会った当初から発達障害の気質があり、さらに認知症になったということなら、”謎の言動”の理由も腑に落ちたのだ。
要介護認定を受けたことで、地域包括支援センターの支援を受けることができるようになったが、しかしヘルパーの方に文句を言っては続々と変えた。
次第に徘徊するようになり、「小学生の頃の夫」を探し回るようになった。
夜中に探しまくったこともある。
排泄のトラブルも出てきた。 資金も潤沢にあるわけではない。
様々な出会いを経て、ようやく施設に入所したのが2020年。
2021年には要介護3の認定を受けるようになっていた。
このように、トミ子は長らく、私や家族にとって「仕方なく乗り越えねばならない障害物」だと感じていた。
日々の不快感、困りごとの多くは、トミ子が原因で起きていたからだ。
しかし、彼女は本当に「障害物」だったのだろうか。
私たち家族は、彼女にどう接すればよかったのだろうか。
今更ながら、私たちの関係性を振り返り、タラレバのシミュレーションを行っている。
あの義母はどこへ? 影を潜めたた「我」の強さ
姑のトミ子は私たちの家を出て、介護施設のひとつである「高齢者住宅」で暮らしていた。
たまに時間を作って会いに行くと、アルカイックスマイルを浮かべて現れた。
職員に様子を聞くと、いっしょに暮らすお年寄りのなかでも大人しくしており、気が強い人を避けるように過ごしているとのことだった。
これはちょっとした驚きだった。
トミ子はふだんニコニコと人当たり良さそうに振舞っているが、ひとたび自分の気に入らないことが起きたり、反論されたりすると、がらりと態度を変えて攻撃的になったからだ。
しかし、そういう気の荒さは彼女の一面でしかなく、もしかすると、家族という後ろ盾が存在していたことで他人に強く出られていたのかもしれない。
以前、私の母・登志子と伯母の恵子が滞在していた介護施設には、ほかの利用者との接触を拒み、部屋に引きこもる男性がいた。
施設のダイニングルームで母ととその男性の体が接触したとき、いきなり母を威嚇し、双方にらみ合うという出来事もあった人だ。
トラブルの後、彼の家族と言葉を交わしたことがある。
自宅では亭主関白で通し、なんでも思いどおりにしてきた人なので、好き勝手が許されない環境が我慢ならないのでしょう、と家族は苦笑していた。
いつもニコニコしていて穏やかで
一方、前述したように、トミ子は施設の利用者とトラブルを起こすことはなかった。
トミ子には、自分と他人の上下関係のようなものを一瞬でかぎ分ける勘があった。
だから、自分が上位に立てる相手には強く出たし、負けそうな相手には下手に出て、世の中を渡ってきたのだった。
ただし、それは「空気が読める」というのとは違う態度だったように思う。
まさに「野生の勘」で、自分を守るための本能を駆使していたとしか言いようがない。
彼女を担当していた支援員は口をそろえて「いつもニコニコしていて穏やかで」とトミ子を評した。
しかし、彼女の内心は、無表情だったのではないか。
トミ子にとって「施設に入る」ということは、相当ストレスフルな出来事だったのだ。
職員たちには辛抱強く親切にしてもらっていても、好き勝手に振舞うことはできなかったし、気をゆるして会話したりする相手も、そうした時間もなかったのだろう。
私たち家族に、嫌味を言ったり余計なことをしていたのも、彼女なりのコミュニケーションの取り方だったのかもしれない、と今なら思える。
結局、施設に入ってから、トミ子はひとりぼっちだった。
言葉を失うと共に見せなくなった感情
高齢者が施設に入ってしまうと、私たちはどうしても、自分たちの生活のあれこれに翻弄され、会いに行くこともままならなくなった。
私たちも、日々の暮らしをやりくりすることで精いっぱいで、数ヵ月に1回ようやく施設に行けるかどうかというサイクルでしか、トミ子の顔を見られなくなった。
その間、ケアマネジャーとは連絡を取り合っていて、トミ子の様子は詳細に教えてもらっていた。
あるときのケアマネの電話で、トミ子の記憶が、もう彼女の小学生時代あたりまでしかないらしいことを知った。
息子のことも嫁である私のことも、もうすっかり忘れているのは知っていた。
しかし、ケアマネジャーとの会話に、自分が働いていたことも結婚したことも、出てこなくなったというのだ。
彼女の話に登場したのは、田舎の小学校のことだけだったと、ケアマネは淡々と説明してくれた。
母・登志子の認知症が進んだときも、直近の記憶からなくなっていき、どんどん子ども時代へと退行していった。
新しい記憶から消えていく。
もしかしたら、それは本人にとっては幸せなことなのかもしれない。
大人になってからの苦労や悲しみを思い出さずに済むのだから。
◇後編「「発達障害で認知症?」小学生の頃に戻った義母の看取りで感じたこと」では、義母が天国に旅立つまでのやりとりや、改めて振り返って感じたことをお伝えする。
上松 容子(フリー編集者・ライター)
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