【以下ニュースソース引用】

祝・北陸新幹線開通! 改めて訪れたい越前の城

ARTS & CULTURE

 

福井城。本丸を囲む壮大な堀と石垣が残る(福井市)
萩原さちこ

萩原さちこ

 城郭ライター

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。 …

 

 

2024年3月16日、北陸新幹線の金沢-敦賀間が開業し、福井県に新幹線が開通した。

 

延伸により東京駅から福井駅まで乗り換えなしで3時間かからず直行できるようになった。

 

そこで今回は、これまで本連載で取り上げてきた福井の城を中心に、改めてその魅力に迫ってみたい。

 

現在の福井県は、令制国では「越前」と「若狭」の二つに分かれる。

 

おおよそ敦賀市を含む嶺北地域が越前、嶺南地域が若狭の国だ。越前と若狭では支配者も社会体制も異なり、文化や風習まで大きく違う。

 

県内で異なる歴史や文化を楽しめるのも、福井県の魅力といえるだろう。

 

今回は、戦国時代から江戸時代初期の越前の歴史をたどりながら、代表的な城を紹介しよう。

 

朝倉氏5代の栄華 谷間に京文化香る城下町

戦国時代の越前は、朝倉氏の繁栄なくして語れない。

 

南北朝時代初期、越前守護となった斯波高経(しば・たかつね)の配下として越前にやって来た、但馬の朝倉庄を出自とする豪族だ。

 

室町時代に甲斐・織田氏と並んで勢力を拡大し、斯波家の実権を握るように。応仁の乱を契機に戦国大名として台頭し、越前を100年余支配した。

 

朝倉氏5代が103年間にわたり越前支配の本拠地としたのが、<戦国大名・朝倉氏の栄華と没落の地 一乗谷朝倉氏遺跡(1)>で紹介した一乗谷(福井市)だ。

 

最後は織田信長によって焼き払われ灰燼(かいじん)に帰したが、発掘調査により戦国大名の居館と城下町が具体的に解明され、現在は城と城下町一帯が一乗谷朝倉氏遺跡として国の特別史跡に指定されている。

 

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

 

一乗谷朝倉氏遺跡は、一乗谷川に沿った約1.7キロの南北に細長い谷あいにある。

 

その内側に、朝倉氏および家臣の居館、城下町が形成されていた。

 

美濃街道が通り、南には府中守護所のある武生に通じる朝倉街道が整備された交通の要所で、谷の東側の山には一乗谷城がある。

 

再現された城下町は武家屋敷群と町屋群に分かれ、建築様式からも文化水準の高さがうかがえる。

 

朝倉館では四つの庭園が見つかっているが、その造営技術も高く、朝倉氏と京との文化交流を物語る。

 

一乗谷は、京にも劣らない、極めて華やかな一大都市だったようだ。

 

一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館跡
一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館跡

 

繁栄を極めた朝倉氏だったが、最後の当主となった朝倉義景は信長と対立。

 

浅井長政と同盟を結び敵対したが、1573(天正元)年に信長に攻め滅ぼされて一乗谷も焼き払われた。

 

信長の越前攻めにおいては、若狭の城が戦いの舞台としていくつも登場する。

 

京都から進軍した信長軍は、熊川城(福井県若狭町、<若狭と近江を結ぶ、若狭街道の重要地点 熊川宿と熊川城>)を経由して若狭に入り、国吉城(同美浜町、<信長退却の中継地にもなった「難攻不落の城」 福井県・国吉城>)に入城。

 

天筒山城(てづつやまじょう、同敦賀市)を攻略し金ヶ崎城(同市)を開城させた直後に、浅井長政の裏切りにより急ぎ退却している。

 

国吉城や熊川城、朽木を経由して京に戻った退却劇のエピソード「金ヶ崎の退(の)き口」はよく知られるエピソードだろう(<信長最大のピンチ「金ケ崎の退き口」と光秀 金ケ崎城と天筒山城>)。

 

一方、朝倉氏を滅亡させた信長は、その後も長らく越前の支配には手を焼いている。

 

結束力を高めた、一向一揆の反発である。

 

信長は朝倉旧臣の桂田長俊(かつらだ・ながとし)を越前の守護代としたが、翌年には朝倉旧臣の富田長繁(とみた・ながしげ)が一揆を味方に桂田長俊を殺害するなど、争いは継続。

 

一向一揆勢が加賀から招いた大坂本願寺の坊官・七里頼周(しちり・よりちか)が越前嶺北地方を制圧すると、その後は本願寺から派遣された下間頼照(しもつま・らいしょう)が豊原寺に入り強大勢力化した。

 

金森長近が築城した越前大野城
金森長近が築城した越前大野城

「越前三人衆」が台頭 一揆平定の拠点にも

1575(天正3)年8月、再び越前を攻撃して一向一揆を制圧した信長は、家臣たちを配して城を築かせている。

 

そのうち、大野郡三分の二を拝領した金森長近が築いたのが、越前大野城(福井県大野市、<わき水のせせらぎに癒やされながら城下を歩く 越前大野城(1)><風情ある石垣と、街道沿いの城下町の眺めを堪能 越前大野城(2)>)だ。

 

大野は、越前と美濃(岐阜県)を結ぶ、美濃街道が通る場所。つまり、本願寺勢力がもっとも発展した北陸諸国と、同じく本願寺が勢力を持った美濃・三河・尾張など東海諸国とを結ぶ。城下町にはかぎの手の道があり、美濃街道を意識した城下町づくりがうかがえる。

 

府中二郡を任せられたのが、越前三人衆と呼ばれる前田利家、佐々成政、不破光治だ。

 

それぞれ府中城、小丸城、竜門寺城(いずれも福井県越前市)に入った。

 

小丸城からは、前田利家が一揆衆を千人ほど生け捕りにして処刑したという、壮絶な一揆弾圧の様子を記す文字が刻まれた瓦が見つかっている。

 

現在の小丸城には約50メートル四方の本丸などが残り、曲輪を囲む堀も残る。

 

かつての城域は東西約300メートル×南北約450メートルにも及んでいたようだ。

 

佐々成政が築いたとされる小丸城
佐々成政が築いたとされる小丸城

 

軍事指揮権を与えられたのが、越前八郡を拝領した柴田勝家だった。

 

『信長公記』によれば、1575年9月に信長に北庄城(福井市)の築城を命じられている。

 

北庄城には九層ともいわれる巨大天守があったとされ、かなり立派な城だったようだ。

 

1577(天正5)年には手取川の戦いで上杉謙信に敗北するなど信長軍の苦戦は続いたが、1580(天正8)年に石山合戦を経て、やがて勝家を総大将として加賀一向一揆を平定している。

 

北庄城。柴田神社になっている
北庄城。柴田神社になっている

 

この背景で北庄城とともに誕生したのが、丸岡城(福井県坂井市)だ。

 

勝家のおいである柴田勝豊が、信長から越前一向一揆の拠点だった豊原寺を与えられ、1576(天正4)年から丸岡城を築いて豊原から移ったとされる。遅くとも、1581(天正9)年までには丸岡城に移転していた。

 

近年の調査で、現存する丸岡城天守は築城時ではなく寛永年間(1624〜1644)の築造と結論づけられたが、築城時に丸岡城が北庄城を補佐する重要な位置付けの城だったのは間違いなさそうだ。

 

立地からも、信長の越前攻略・支配の重要拠点のひとつとして機能したことがうかがえる(<「現存最古」でなくとも、それ以上の価値が 天守が解明された丸岡城(1)><築城の背景から探る、主君・信長の戦略と理念 丸岡城(2)>)。

 

勝豊は柴田家で重要な立場にあったようで、1581(天正9)年2月には信長に謁見(えっけん)し、越前衆として信長開催の京都馬揃(ぞろ)えに参加している。

 

1582(天正10)年の信長没後の清洲会議で勝家は新たに江北三郡を領地とするのだが、その拠点となる長浜城(滋賀県長浜市)の城主も務めている。

 

羽柴秀吉との後継者争いに敗れた勝家は、翌年に北庄城で自刃。

 

勝家の後には、越前・若狭・加賀の一部を拝領していた秀吉配下の丹羽長秀が北庄城に入っている。

 

丸岡城天守からの眺望
丸岡城天守からの眺望

徳川氏が実権 巨大城郭・福井城の誕生

越前や若狭のみならず、やがて全国的な大転換点となるのが1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いである。

 

勝利した徳川家康は政治的な実権を握り、大名の配置換えを行った。

 

これまで秀吉政権下の重臣が置かれていた領地には、親藩大名や譜代大名が置かれて徳川体制が構築された。

 

この過程で、諸大名が新領地で新たな拠点となる城を整備していった。

 

越前には、家康の次男である結城秀康が入国した。家康の次男ではあるものの家督を継ぐ立場にはなく、1584年の小牧・長久手の戦いの後に秀吉の養子となり、実質的な人質として過ごした後に結城氏の養子となった人物だ。

 

秀康の入封により、後の福井藩が成立した。

 

福井城に立つ結城秀康の石像
福井城に立つ結城秀康の石像

 

秀康は、北庄城を拡張する形で新たな支配拠点を築城した。

 

これが、福井城である(<福井県庁は日本一強い? 福井城本丸にそびえる現代の「天守」><松平春嶽公の「通勤」、追体験! 復元された福井城の山里口御門>)。

 

四重・五重に堀がめぐらされ、本丸北西隅には四重五階の天守が立っていた。

 

本丸と二の丸の縄張(設計)は家康が自ら行ったともされ、68万石の大大名にふさわしい巨大城郭が誕生した。

 

福井城では現在、本丸南西角の坤櫓(ひつじさる・やぐら)や土塀の復元計画が進行中だ。

 

1669(寛文9)年の大火で天守が焼失した後に再建され、象徴的な建物になっていたと考えられる三重櫓の一つである。

 

南東角にあった巽(たつみ)櫓を参考にして再建を目指す。

 

復元された福井城の山里口御門
復元された福井城の山里口御門

お家騒動と立藩 波乱にまみれた丸岡城

前述した丸岡城や越前大野城も、ここで大きな転換期を迎えることになる。

 

秀康の有力家臣たちが城主を務める、福井藩の支城の一つになったのだ。

 

秀康は家臣団に知行を与え、1万石以上の家臣を丸岡・柿原・府中・大野などの要所に配して支城制を確立。丸岡城は、福井藩家老の今村盛次が2万5000石で城主となった。

 

丸岡城には、さらにドラマチックな歴史が待っていた。

 

1612(慶長17)年の久世騒動(越前騒動)と呼ばれるお家騒動により今村一派が没落すると、幼少だった2代藩主・松平忠直の付家老として、旗本の本多成重が4万石を与えられて丸岡城主となったのだ。

 

さらに大きな転機が、立藩だ。1623(元和9)年に松平忠直が隠居処分となると、1624(寛永元)年に丸岡藩が成立。これにより、本多成重が4万6300石で丸岡藩主となった。

 

松平忠直の隠居処分後、結城秀康の三男・松平直政が大野5万石で越前大野城に入り、六男・松平直良も木本2万5000石を分与され福井藩から独立している。

 

本多成重は親族ではないが、同じように支藩として立藩して藩主となっている。

 

家康の家臣・本多重次の長男で幼少期には結城秀康に従った人物でもあるが、付家老としてよほどの地位を確立していたのだろう。

 

こうして、丸岡城は福井藩の支城から丸岡藩の居城へと位置付けを大きく変えたのだった。

 

丸岡城の天守
丸岡城の天守

 

1615(慶長20)年に大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させた後、江戸幕府は一国一城令や武家諸法度などの大名統制令を公布していた。

 

城の新築や改修に厳しい規制がかかっていたことを考えると、立藩を機に丸岡城が整備され天守まで建造されたという見解は、当時の社会体制や江戸幕府の意図、幕府との関係性を考える上で興味深い調査成果といえよう。

 

ひとつの地域に絞って城の時系列を整理すると、地域の歴史が立体的に見えてくるのではないだろうか。

 

福井の城を通して、福井の歴史を感じてもらいたい。

 

 

#交通・問い合わせ・参考サイト

 

■一乗谷朝倉氏遺跡 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/(一乗谷朝倉氏遺跡博物館)

 

■越前大野城 https://www.ono-kankou.jp/tourism/detail.php?cd=14(越前おおの観光ビューロー)

 

■福井城 https://www.fuku-e.com/spot/detail_1016.html(福井県観光連盟)

 

■丸岡城 https://kanko-sakai.com/feature/maruokajo/(DMOさかい観光局)

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