【以下ニュースソース引用】
来日から40年超、熟練のインド料理人を癒やす素朴な故郷の味
インド食器輸入業
インド食器・調理器具の輸入販売業を主体とする有限会社アジアハンター代表。1990年頃からインド渡 …
インド、ネパール、バングラデシュ……、日本で出会うことが多いインド亜大陸出身の人たち。
日本では普段、どんな食事をし、どんな暮らしをしているのでしょうか。
インド食器・調理器具の輸入販売業を営む小林真樹さんが身近にある知られざる異国食文化を紹介します。
初回は東京・大森のインド宮廷料理店で腕を振るうシェフの家庭を訪ねました。
マンションの台所で作る 北インドの主食・チャパティ
「アッサラーム・アライクム(イスラム教のあいさつで「こんにちは」)、どうぞ上がってください」
ドアが開くとフセインさん・スラヤさんご夫妻が仲良く並んで顔を出し迎え入れてくれた。
奥の台所からはかすかなスパイスの香りが漂ってくる。
東京・大森の住宅地にあるマンションの5階。
1LDKの決して広くない間取りに、フセインさん夫妻が二人で暮らしている。
スラヤさんは小さな台所に戻って調理の続きに取りかかった。
ちょうどチャパティ(北インド式の薄焼きパン)の生地を捏(こ)ねている最中だったのだ。
捏ねた生地をしばらく寝かせ、赤ちゃんのこぶし大に取り分けて丸め、伸ばし棒を使って平たく円形に伸ばして鉄板で焼き上げる。
北インドの代表的な主食で、主婦であるスラヤさんはこれを毎日作っている。
大森にあるインド宮廷料理マシャールで日々腕を振るうフセインさん。
日本に来るまでどのような道のりだったのだろう。
「北インドのルドーリーという小さな農村で生まれました。家業の農家を継ぐのが嫌でね。もともと好きだった料理の道に進もうと、実家の仕事を弟にまかせてデリーに出たんです」
就職したムスリム(イスラム教徒)食堂では下働きからはじまり、その後タンドール(窯)番をまかされるようになる。
やがてその腕を買われて同じデリーにあるカリーム・ホテルに引き抜かれた。
カリーム・ホテルは内外から著名人が訪れる、インド随一の代表的名店である。
そこで10年ほどタンドール番として勤務したのち今度はムンバイにあるザ・タージマハル・インターコンチネンタル(現タージマハル・パレス)という、これまた超一流のファイブスターホテルに引き抜かれる。
インドの腕のたつ料理人は、このようにして名だたる店を渡り歩くのだ。
料理に対する探究心が旺盛だったフセインさんは、ザ・タージマハル・インターコンチネンタル勤務時代に本来自分の担当ではない南インド料理セクションを訪れ、そこの調理スタッフと仲良くなって本格的な南インド料理をあらかた習得してしまった。
「もちろん手ぶらじゃダメ。ビリヤニを作ってお昼に差し入れするんです。彼らは喜んで教えてくれましたよ」
こうして習得した南インド料理のレパートリーは、現在腕を振るう大森のマシャールでもいかんなく発揮されている。
ちなみにインドでも規模の大きいレストランの厨房(ちゅうぼう)では、それぞれ担当部署が決まっている。
北インド料理、南インド料理、中華料理、コンチネンタル料理などがセクションごとに仕切られていて、互いに行き来することはまずない。
基本的にタテ割り社会なのだ。
北インド料理の担当はずっと北インド料理だけを作り続けるのが通常で、そうした点からもフセインさんは特異な料理人といえるのだ。
「奥さんのチャパティの味にはかなわない」
そんなプロ意識の高いフセインさんがホッと一息つくのが、帰宅後に食べる妻スラヤさんの手料理。
店では熟練の腕をふるっているが、自宅の台所に立つことはほとんどないという。
「家の料理はすべてまかせています。ウチの奥さんのチャパティの味にはかなわないからね(笑)」
インドでは大規模調理をともなう厨房仕事は基本的に「男の世界」。
一方、家庭内の台所は「女の世界」となり、男が立ち入るべきではないとされる。
だから外の仕事で日々どんなに大量の料理を作る料理人でも、家では包丁一本握らないのが普通なのだ。
この日スラヤさんが作ってくれたのは、まずベサン粉(ひよこ豆の粉末)を捏ねて薄焼きにしたチラー。
みじん切りにしたトマトと玉ねぎが入った、北部~西部インドでよく食べられている軽食だ。
そしてダール。
ダールとはひき割り豆の総称で、市場に行くと何種類もの乾燥したダールが並んでいる。
インド原産のものが多く、インドの家庭になくてはならない食材である。
ダールは水で戻し、圧力鍋で軟らかく煮て汁ものにする。
北インドならチャパティ、南インドならライスと共に食べる、日本のみそ汁のような存在だ。
そしてこの日のメインはカバーブだった。
スラヤさんたちはムスリムだが、インドにいた頃は食卓に肉料理が上るのは一週間のうちせいぜい一日程度。
ムスリムだからといって毎日肉を食べるわけではないのだ。
もちろん、客人が来たり祝いごとがあったりした場合には肉料理になることもあったが、あくまでそれは特別なケース。
そしてそんな時によく食べられていたのがカバーブだった。
「家の誰かが『今日は街で羊肉を買ってきた』というと皆大喜びでね。どうやって料理しようか皆でワイワイ相談したりして。でも結局カバーブにすることが多かったですよ」
カバーブはミンチにした羊肉にフライパンでよく炒ったベサン粉をつなぎにし、さらにみじん切りにした野菜なども混ぜる。
そうすることで食感がよくなるだけでなく「かさ」増しされて大勢で食べることが出来るのだ。
ちなみにカバーブのような肉料理に合わせるチャパティは出来るだけ水分を多くして薄く延ばす。
一方、野菜料理と食べるチャパティは分厚く硬く仕上げるという。
合わせるおかずに応じてチャパティの厚みや硬さを変えるところに、限られた材料であっても食を楽しもうとするインド人の工夫が感じられる。
劇的に変わった輸入食材の調達環境
「インドから持ってきた調理道具はどれですか?」
調理過程を覗き込みながら私は聞いた。
本業であるインドの食器や調理器具の輸入業という商売柄、隣のインド人の料理だけでなくそれを作る調理道具が気になるのだ。
「圧力鍋とタワ(鉄板)、ベーラン(生地の伸ばし棒)ぐらいね。あとは日本で売っているものを使っているんですよ」
逆にいえば、これらの調理器具は日本製では代用できないといえる。
例えば小さな火力で豆や米を炊く圧力鍋は、今やどんな小さな村に行っても見かける調理器具である。
圧がかかってくるとフタの上部にある空気孔から蒸気が噴出する。
その際「ピーッ」と笛のような音が鳴るが、これをインド人は文字通り「ホイッスル」と呼ぶ。
インドで刊行されたレシピ本を見ていると、煮込み時間に応じて「豆を煮るには3ホイッスル」「鶏料理は5ホイッスル」などと記載されている。
ホイッスルが煮込みの単位となっているのだ。
しかし日本の圧力鍋はこのホイッスルがない。
「だから使いづらいのよね」とスラヤさんはいう。
日本で入手出来るものを工夫して使うのは何も調理器具だけじゃない。
フセインさんが初来日した1982年当時、今や広く日本のインド料理店で見かけるようになったバスマティー米(インドの長粒米)など日本のどこにもなかった。
ビリヤニという、本来ならバスマティー米を用いる華やかな米料理もやむを得ず日本米で代用していたという。
「今じゃ米はもちろん、インドの新鮮な野菜まで買えますからね。これからインド料理店をやる人たちには便利な時代になりましたよ」
インド料理に必要な輸入食材の調達環境はこの40年で劇的に変わった。
当初は米やハラール肉(イスラム教の戒律に則って処理された肉)の確保すら難しかったのが、ここ数年インド食材専門業者が複数登場し、珍しいインド産の野菜を競い合うようにして輸入・販売するようになった。
スマホアプリなどのオンライン化も進んでいる。
ようやくすべての料理が出来上がった。
絨毯(じゅうたん)の上に食事用の布を敷き、大皿に移した料理を並べていくのがムスリム式。
このように来客がある場合は大皿に移すが、普段は鍋のまま家族が囲む真ん中に置き、食べる分をめいめいの皿によそう。
早速柔らかいチャパティに包んでほお張ると、肉のシンプルなうまみが口いっぱいに広がった。
薄く焼いたチャパティともさすがに相性がいい。
熱々のダールはライスにかけて。寒い季節のダールは身も心も温まる。
食べ終えた皿を見ると、フセインさんもスラヤさんもまるでダールの汁が少しも残らないよう、きれいにふき取られていた。
手で食べているからだろうか。
スプーンなんかで食べていたら決してここまできれいにならないはずだ。
ベテランの料理人を家庭で支えるスラヤさんの素朴で滋味深い一皿。
そこには店の看板メニューである、ムガル皇帝の名を冠した宮廷料理とは対照的ながら、同じぐらいの奥深さをもつ芳醇(ほうじゅん)なインド家庭料理の世界があった。