【以下ニュースソース引用】

早春の伊勢湾を渡る菜の花ルート 生まれ変わった豊橋・人蔘湯へ

ESSAY

 

人蔘湯(にんじんゆ)のおかみ・藤井寿美子さん(左)と、店長の奥村明加さん=愛知県豊橋市
松本康治

松本康治

 ライター・出版社経営

1962年、大阪府生まれ。出版社勤務を経て、1987年に医療系出版社として「さいろ社」を設立。山 …

 

 

旅が好きだからといって、いつも旅ばかりしているわけにはいかない。

 

多くの人は、人生の時間の大半を地元での地道な日常生活に費やしているはず。

 

私もその一人だ。

 

が、少し異なるのは、夕方近くにはほぼ毎日、その地域で昔から続く銭湯(一般公衆浴場)ののれんをくぐることだろうか。

 

この習慣は地元でも旅先でも変わらない。昔ながらの銭湯の客は、地域の常連さんがほとんど。近場であれ旅先であれ、知らない人たちのコミュニティーへよそ者として、しかも裸でお邪魔することは、けっこうな非日常体験であり、ひとつの旅なのだ。

 

神戸→豊橋のんびりルート、スナメリの海峡を渡る

 

鳥羽(三重県)から伊勢湾フェリーに乗った。

 

強い北風のせいで波は高いが、日差しはもう春だ。

 

私は以前、この船のデッキからスナメリを見たことがある。

 

あれは20年……いや、もっと前だったかもしれない。

 

海面のすぐ下で真っ白な2頭のスナメリが仲良く泳ぎながらしばらく船に伴走した。

 

スナメリはイルカのように顔がとがっておらず、白い顔が人のように見えてドキッとした。

 

それで今回も彼らに会えないかと思って、デッキに出て波間に目を凝らした。

 

でも探すと見られないものなのだろう、白波を眺めるうちに1時間が過ぎ、船はあっという間に渥美半島の先端、愛知県田原市の伊良湖岬(いらごみさき)に到着した。

 

私がずいぶんしばらくぶりにこの船に乗ったのは、豊橋市の人蔘湯(にんじんゆ)が浴槽のタイルを一新したと知ったからだ。

 

人蔘湯は私が発行するMOOKシリーズ『旅先銭湯4 特集:路面電車で風呂いこう!』(2020年)の取材でお世話になったのだが、その後いろいろあって(後述)、繰り返し訪れる銭湯の一つとなっている。

 

神戸から豊橋へは新幹線を使えば1時間半ほどだが、もう一つ別の行き方がある。

 

三宮から阪神・近鉄を乗り継いで鳥羽へ出て、伊勢湾フェリーで伊良湖岬に渡り、渥美半島を路線バスと豊橋鉄道で縦貫する、いわば「海を渡るルート」だ。

 

地図で見ると、こっちのほうが神戸と豊橋を最短距離で結び、船とバスのセット券などを利用すれば新幹線より安く移動できる。

 

ただし時間は数倍かかるので、のんびり旅限定のコースだ。

菜の花の半島を路線バスとローカル鉄道で縦貫

伊良湖岬でのバス待ちの時間を利用して、歩いて8分ほどの伊良湖岬灯台を見に行った。

 

灯台までの伊勢湾側は北風が強く吹き付けて波が高いが、岬をまわって太平洋側の恋路ヶ浜に出るとウソのように風がピタリと消えた。

 

ちょうど菜の花が満開の時期で、その初々しい香りになんとも気分が浮き立ってくる。

 

うーん、このルートは正解だったなぁ。

 

バスに乗ってからも沿道は夢のように菜の花畑が続き、渥美半島が花卉(かき)栽培の盛んな土地であることを知らされた。

 

伊良湖岬灯台。沖に、三島由紀夫『潮騒』の舞台になった神島(三重県鳥羽市)を望む
伊良湖岬灯台。沖に、三島由紀夫『潮騒』の舞台になった神島(三重県鳥羽市)を望む

 

半島中心部の田原(三河田原駅)から豊橋市内へは豊橋鉄道が通じている。

 

田原城跡などを2時間ほど散策してから豊橋鉄道に乗り、豊橋に着いた頃にはもう薄暗くなっていた。

路面電車のある街・豊橋

豊橋はかつて吉田藩があり東海道の吉田宿があった城下町・宿場町だが、明治になってから「よその吉田とまぎらわしい」との理由で豊橋と改称されたらしい。

 

とはいえ「豊」の字で始まる街もいくつもあるし、シンボリックな観光名所もこれといって見当たらないため、都市の規模の割にはあまり意識されない街なのではなかろうか。

 

でも実際に訪れてみると、市街地の真ん中を走る路面電車はどれも派手にラッピングされて、なかなかの存在感だ。

廃業危機からよみがえった人蔘湯

豊橋に残る2軒の古い銭湯は、それぞれ路面電車の沿線にある。

 

石巻湯(いしまきゆ)は「市役所前」、人蔘湯は「新川」が近い。

 

石巻湯(左)と人蔘湯
石巻湯(左)と人蔘湯

 

戦前から営まれてきた人蔘湯は、かつて朝鮮ニンジン由来の生薬を薬湯に使ったことからその名がついたとされる。

 

私は以前の取材時に、設備老朽化で前途が危ういことをおかみの藤井寿美子さん(当時73歳)から聞いていた。

 

そのことは京都に拠点を置く銭湯継業グループ「ゆとなみ社」(「レトロ銭湯、手作りルネサンス」で紹介)代表の湊三次郎さんにひそかに相談していたのだが、翌2020年8月、ついに人蔘湯の心臓ともいえるボイラーの大きな破損によって営業不能となり、翌月廃業の決断をされた。

 

藤井さんに電話してみると、突然の故障でやめてしまったため、長年通ってくれた常連客にあいさつもできなかったのが心残りだと言われる。

 

「知り合いに釜場を見てもらいたいのですがどうでしょう、実際に見てダメなら仕方ないということで」と私は持ちかけ、見せていただけることになった。

 

ゆとなみ社による現場確認風景(2020年10月19日)、左が湊さん
ゆとなみ社による現場確認風景(2020年10月19日)、左が湊さん

 

実際に見る釜場は壊れたボイラーや破損した配管など「満身創痍(そうい)」の四文字に尽きる感じだった。

 

しかし湊さんは「これはアレと入れ替えて、ここはこうして……」などと素早く判断、「できると思います」と言い切った。

 

彼自身が豊橋の隣の浜松出身であること、ゆとなみ社に豊橋出身のスタッフがいたこともあっただろう。

 

そして、ゆとなみ社は藤井さんから復活と経営を託され、釜場から浴室・脱衣場を大きく改修。

 

費用の一部をクラウドファンディングも利用して調達し、2021年4月30日、再オープンにこぎ着けた。

 

それに先立って、私が参加する銭湯応援ボランティアグループ「県境なき目地団(めじだん)」が湯船のタイル目地の補修を受け持ち、仲間らと2日間にわたって作業した。

 

そのようなこともあって、自分たちの触った湯船のタイルが今回どのように刷新されたのか、私は興味しんしんだったのだ。

 

県境なき目地団の作業風景
県境なき目地団の作業風景

湯船のタイルはどうなったのか

人蔘湯にはもともとラドン室やスチームサウナがあり、にぎわいのある銭湯だった。

 

それがリニューアルによって番台式だった脱衣場はフロント式となり、男湯はラドン室が乾式サウナとなって(女湯では休憩スペースになった)、客層が広がってますますにぎわうようになった。

 

リニューアルによってフロント式となり、ロビーと脱衣場とは壁で仕切られた
リニューアルによってフロント式となり、ロビーと脱衣場とは壁で仕切られた
フロントに置かれたガラス鉢のアヒルの数で現在の混み具合がわかる。再開時の店長・大武千明さん考案の画期的な工夫
フロントに置かれたガラス鉢のアヒルの数で現在の混み具合がわかる。再開時の店長・大武千明さん考案の画期的な工夫

 

裸になって浴室へ。

 

さて、こまかなモザイクタイルがこれでもかとびっしり張り巡らされ、欠けたところは種類の違う丸タイルなどでツギハギ的に埋められていた湯船のタイルはどうなったのかな……。

 

おっ、なんと底のタイルはすごく大判だ。

 

ほう~、そう来たか。

 

そして側面はれんがくらいのサイズ。

 

ふむふむ、以前のようなレトロな味わいはさすがに薄れたものの、水色の色調は以前とほぼ同じものが選ばれ、ジェットによる湯面の揺らぎでタイルサイズの変化はさほど気にならず、雰囲気は意外なほど以前のままだ。

 

そして隅まできっちりと張られたタイルは職人芸を感じさせ、とても清潔感がある。

 

水あかが取れなかった吐水口では新品のライオンがお湯を吐き出している。

 

よいではないか。

 

私は不審者のようにニヤニヤしながら、あっちの湯船、こっちの湯船と行ったり来たりしながらの長風呂となった。

 

(左)人蔘湯の浴室。奥壁のモザイク画や男女仕切り壁の細かなタイル装飾は以前のまま(右)湯船の底に大判タイルが貼られた
(左)人蔘湯の浴室。奥壁のモザイク画や男女仕切り壁の細かなタイル装飾は以前のまま(右)湯船の底に大判タイルが貼られた

 

湯上がりのロビーで、店長の奥村明加(はるか)さん(32歳)に会うことができた。

 

これらのタイルは湊さんとスタッフらでタイル産地の多治見(岐阜県)まで見に行って決めてきたそうだ。

 

「湯船の外側のタイル、カステラみたいな色になっちゃったでしょう?」

 

たしかに、以前はススキ模様の入った黄土色のタイルだったが、張り替えられたタイルはあまり銭湯では見ない色合いだ。

歯科衛生士から銭湯へ

豊橋出身の奥村さんは2022年10月ごろに新しく店長になった。

 

その前年まで、歯科衛生士として働いていたそうだ。

 

「歯科衛生士の仕事は大好きで、いつかまた戻るつもり。

 

でも私は豊橋から出たことがなく、動物が好きだから自然の中で動物相手の仕事もしてみたいと考え、北海道旅行で見た輓馬(ばんば……北海道開拓期に活躍した荷物運搬用の使役馬、現在は「ばんえい競馬」用に育てられている)の牧場で働いてみようと思いました。

 

でも輓馬の牧場仕事は季節労働のため、空いた期間を利用して、知り合いがバイトしてた人蔘湯で私も働くことにしたんです」

 

――銭湯が好きだったんですか?


「いえ、興味なかったし、人蔘湯の存在も知りませんでした。

 

でもおもしろそうかなと。2021年の10月ごろですね。それで、北海道へ行く翌年3月までのつなぎのバイトとして」


――やってみてどうでした?


「お風呂もよかったですけど、それ以上に、コミュニティーとしておもしろいと思いました。

 

生活の一部として裸になるコミュニケーションの場があって、それに携われるのが仕事としておもしろいと」


――馬はどうしました?


「馬も捨てきれず、予定通りに北海道へ行きました。

 

お産の世話など、これもおもしろい仕事でした。

 

ただ、家畜の世話自体は今でなくてもできるかなと感じたんです。

 

銭湯は豊橋に2軒しかなくて、これを残したい。

 

今、自分の人生の時間を割いて全力でやるなら風呂かな、みんなの生活の一部に携わっていたいなと。

 

それで予定を早めて帰ってきちゃいました」


――そしてその年の10月から店長になられて、いかがですか。


「店が開くのを毎日待ってくれている人がいて、その生活風景の一部になれているのが楽しいし、歯科では医療のルールがガッチリあったのに比べると自由裁量の幅が広くて自分らしく過ごせていると思います。

 

それに、私の場合はゆとなみ社の店長であること以上に、おかみさんが並走してくれていることが大きいです」

 

これには少し説明が必要だ。おかみの藤井さんはゆとなみ社が人蔘湯の経営を引き継いでリニューアルしてからも、そのスタッフとしてシフトに入り、お湯の沸かし込みや番台などを担っている。

 

これはゆとなみ社が継業した他の銭湯にない、人蔘湯独特の体制だ。

 

「トラブル時の対応はおかみさんが教えてくれるし、何よりも昔からのいいお客さんをおかみさんが残してくれて、それを今もつないでくれている。それが大きいです。

 

ゆとなみ社としてはそこにグッズ製作やイベントなど楽しい企画を乗せている感じですね」

 

店長・奥村明加さん(左)とおかみ・藤井寿美子さん
店長・奥村明加さん(左)とおかみ・藤井寿美子さん

奇跡のバランス

おかみの藤井さんは、1971年に24歳で人蔘湯に嫁いで「新婚旅行の翌日から」番台に座るようになり、2005年ころからはパートさんと2人だけで切り盛りしてきた。

 

人蔘湯は藤井さんにとって、人生をかけて守ってきた銭湯といえる。

 

どこの銭湯経営者にとってもそうだが、その長い歳月にはさまざまな出来事と苦労があり、深い思い入れが刻み込まれている。

 

それだけに、継続できなくなったからといって知らない他人にハイどうぞ、好きにいじってください、と言うのはつらい。

 

そんなふうに変えられてしまうくらいならと廃業を選ぶ人も少なくない。

 

また引き継いだ側にとっても、壊れた設備を更新するには多額の費用がかかり、それを取り返すには従来の経営方法の思い切った刷新が必要となり、それまでの経営者の思い入れをある意味で壊してしまうことになる。

 

ここに銭湯のような個人事業の承継の難しさがある。

 

そんな中、人蔘湯では元の経営者である藤井さんと新店長の奥村さんが支えあい、スタッフとして一緒に働いている。

 

いちばん興味をひかれるのは、これまで人蔘湯を自分の城として采配を振るってきた藤井さんが、自分の息子よりも若い若者たちの主導の下でもにこやかに働いておられる点。そんな大人にはなかなか出会えない。

 

――おかみさんは最初、そんな知らない若者が引き継ぐという話をどう思いましたか?


「もちろん不安でしたし、迷いました。そこで息子に相談したんです。

 

息子はサラリーマンで銭湯の手伝いは一切しませんでしたが、聞いてみたら湊さんのことを知っていたんです。

 

そして、任せてみたら、と。息子なりに風呂屋で育った思いがあったのか、なくしてほしくなかったみたいで」


――おかみさんとしてはどうでしたか?


「私は機械が動けばまだ続けたいと思っていましたが、突然ボイラーが壊れ、きちんとしたやめ方ができなかった、お客さんにあいさつもできなかったのが本当につらかった。

 

そこへ、引き継いでくれる人が現れたのはありがたいと思いました。

 

そしてお客さんと離れたくないので、『私を使ってください』と自分から湊さんに申し入れたんです」


――でも自分が育ててきた風呂を他人に変えられてしまうのはつらくなかったですか?


「それは今までのスタイルが私は好きでしたが、お願いした以上、割り切らないと、と」


――それで今はどうですか。


「仕事が楽しくて仕方ないです。

 

月に5~6日は湯沸かしと脱衣場の掃除、番台は夜に月9日、昼に3~4日、シフト表に沿ってスタッフの一員として入っています。

 

でも、私はいいけど、ゆとなみ社としてはどうなんだろうと思ったり。

 

それで湊さんとの面談では、『どうしたもんかね、私がいらなくなったらいつでも言ってくださいね』と言ってます」

 

私は藤井さんの人間の出来っぷりに感銘を受けずにはいられなかった。

 

奥村店長も「どっちかというと私は会社よりおかみさんかな」と言うほど慕っている。

 

この人だからこそ、老若男女に愛される人蔘湯の奇跡のバランスが成立しているのだと感じた。

 

人蔘湯のチャームポイントさくらんぼタイル、これも以前のまま
人蔘湯のチャームポイントさくらんぼタイル、これも以前のまま

うどんだし「東西混在の街」の逸品

まっさらタイルの気持ちのいい風呂に入った上に、なにか人生の道しるべに出会ったようなすがすがしい気持ちになった私は、無性に食欲が湧いてきた。

 

豊橋でみんなが食べているものを食べたい!

 

 最近、豊橋では「豊橋カレーうどん」をご当地グルメとして売り出しているが、そういやうどんの消費量が多い街でもあるらしい。

 

うどんだしの東西境界は関ヶ原であるともいわれるが、つゆの色でいうと一般的に関西は透明で関東は黒く、豊橋にはその両方が混在している。

 

人気の老舗「勢川 本店」に行った。三河地方のソウルフードとも言われる「にかけ」のつゆは透明だ。

 

しかしそこへたっぷりとかつお節が載せられ、関西風の昆布ベースのだしに比べてかつおの香りが圧倒的。

 

そして、つゆは透き通っているのに甘みがある。

 

うーむ、これは完成されているぞ。関西がどうの関東がどうのより、この地方独自のうどんとして賞味すべきだろう。

 

そして「豊橋カレーうどん」も食べないとね。

 

カレーうどんを食べ進むと下から山かけごはんが出てくる。

 

豊橋名産ウズラ卵が三つも載っているぞ。

 

これらは意外にも品よく調和して、あとをひくうまさだ。

 

行列のできる勢川本店(左)と「にかけ」480円(右上)、「豊橋カレーうどん」880円(右下)
行列のできる勢川本店(左)と「にかけ」480円(右上)、「豊橋カレーうどん」880円(右下)

 

関西と関東の間には名古屋があり、東海道を移動する人はこの3エリアを最速の新幹線で飛ぶように行き来することが多いだろう。

 

でも、時には伊勢湾を船で渡って、あるいは豊橋あたりに寄り道して、見過ごされがちな場所の空気と人に触れるのもええもんやなぁ。

 

私は帰りの列車で旅の余韻にひたりながら、また次の旅先を思うのだった。

 

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早春の伊勢湾を渡る菜の花ルート 生まれ変わった豊橋・人蔘湯へ

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早春の伊勢湾を渡る菜の花ルート 生まれ変わった豊橋・人蔘湯へ
 

【人蔘湯】


愛知県豊橋市神明町47


電話 070-9004-1126


営業時間 14:00~0:00 水曜定休

 

「旅先銭湯」シリーズ

本連載の著者・松本康治さんが、全国のレトロな銭湯や周辺の街を訪ねたムック本「旅先銭湯」は、書店やネット、各地の銭湯で販売中。松本さんは「ふろいこか~プロジェクト」を立ち上げ、廃業が進む銭湯を残したり、修復したりする活動も応援しています。

 

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