【以下ニュースソース引用】
連載歴代最長。同一賃貸入居歴28年のふたりが大事にしてきたもの〈293〉
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〈住人プロフィール〉
62歳(契約社員、カウンセラー・女性)
賃貸マンション・2DK・京王井の頭線 浜田山駅・杉並区
入居28年・築年数約42年・夫(マンション設備業自営・54歳)との2人暮らし
1月のある日、突然、呼び鈴が鳴った。
夫が対応すると、見慣れぬスーツ姿の男性がいる。
「今月から弊社に管理会社が代わりまして。マンションは取り壊しが決まりましたので、退去のお願いに参りました」
「急すぎます。いつまでですか」
「できるだけ早いと助かります」
その後、近くのファミレスで詳しい話を聞く。
困惑して即答できずにいると、どんどん提示の立ち退き料が加算されていった。
ふたりは、この部屋も浜田山の街も気に入っていた。
築年数は古いが、5階の部屋からは富士山が見える。
駅から自宅までに、西友やチェーン店もあるが、個人経営のセンスの良い書店や花屋、地元民から愛される洋菓子店なども混じり合う。
夫の「街がぎらぎらしていないところもいい」という言葉にも共感している。
「入居したときは、畳2間にふすまで、台所は昭和柄のクッションフロア。
それをひとつひとつ、彼とDIYしながら原状復帰できる範囲でリフォームして思い入れもありました」
畳の上にフローリング材を敷き、ふすまを取り外してワンルームに。
台所には、ワイヤと金具で棚を取り付け、コンロ脇のデッドスペースには鍋を置くキャビネットも夫が自作した。
賃貸物件入居歴28年は、この連載でおそらく初である。
東京では2年に1度契約更新があり、ひと月分の家賃を加算して払うことが多い。
それは、もっと住みやすいところに、あるいは「広い」「便利」なところに越そうと考える契機にもなりやすい。
ただでさえ隣の芝生は青く見えるものだが、一度も転居を考えずにきたのはなぜか。
「空がいいんですよ。今も毎日、ベランダに出ては雲の写真を撮っています。
最初の内見のときが夜で、彼が夜景を見て“ここにしよう”って一発で決めたんです」
以来ずっと住まいに不満がない。
洗面所はお湯が出ないことや、家具の重さで沈む古い畳もとるにたらない。
「かといってすべてに欲がないわけでもないんです。
化粧品や美容室は、いいものに出合っても、もっと上があるんじゃないかって、追い求めちゃう。
不思議と住まいは満足して、未来の物件を探すことなくきた。それだけなんですよね」
淡々と語る。
しかし、さまざまな交渉の末、4月に退去が決定した。
次の住まいもここからほど近い井の頭沿線で、町名も変わらない。
絶対外せないという善福寺川近くの1LDKだ。
環境を諦めきれなかったので、予算に合わせて部屋が少々狭くなったが、今は楽しみが大きくふくらんでいる。
「井の頭線にこだわったのは、思い返すと20代の頃に見た、あるイラストレーターさんの住まいが原点なんですよね。
井の頭線の東松原という駅で、当時私は編集者で、彼の家に作品を受け取りに行ったのです」
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“ふわん”の原風景
その住まいは古いマンションの一室で、棚や収納などDIYで工夫を重ね、窓辺にはたっぷりの花が飾られていた。
打ち合わせをしていると、奥の部屋から赤ちゃんの声が聞こえる。
穏やかな生活の気配に気持ちがほぐれる。
帰り道の線路の脇には、あじさいが揺れていた。
「古いマンションでも工夫して自分流に、楽しみながら暮らしていて。
井の頭線に乗ると、ゆっくり走る車窓から家々やあじさいが見えて。
神奈川の実家近くは京急でピューってすごい速いから、景色もあまり楽しめないんです。
沿線の街は洗練されすぎてなくて、のどかで、緑もある。
そのときふわんとなんともいえない安心感、優しくて幸せな空気感に包まれたんですよね。
進む道をポッと照らされたような。大好きな絵本を満ち足りた気持ちで読み終えたような。
ああ、私もこんな街であんなふうに暮らしたいなと思いました」
30数年前の“ふわん”の優しい原風景が、今も心にある。
それを浜田山の住まいで無理せず体現できたからこそ、今以上を望まなかったのだろう。
ところで夫は、転居に抵抗はないのだろうか。
「Rちゃん(妻)の住みたいところならどこでもいいよって」
聞くほどに、仲の良さが伝わる。
彼女は契約社員の傍ら、30年来心理学とコーチングの勉強を続け、3年前からオンラインのカウンセリングも始めた。
すると、彼にこう言われたらしい。
「Rちゃんは、そこにいるだけでみんな楽しい気持ちになって癒やされるから、わざわざそんなことやらなくていいよ」
取材では「だんなさん」という言葉を用いる。
昨今は、主従関係を思わせるとして敏感に受け止められがちだが、意に介さない。
「うちは子どもがいないから“パパ”も変だし、“主人”は使わないけれど、とくに気にしていません」
互いが違和感なく、心が健やかならそれでいい。
夫婦の睦(むつ)まじさを率直に語るところも含めて世代的には珍しいかもしれないが、「自分たちはこれでいい」という自然体は、理屈でないところで胸に響いた。
ただ、8歳下の彼との結婚は簡単ではなかったらしい。
一緒に暮らし始めた当初は、彼は建築事務所を辞め、ボイラー技士のアルバイトを始めたばかりで先が見えない。
収入が多かった彼女が家賃を負担した。
いっぽう彼女は実家からは次々見合いを勧められ、これからどうするか互いに触れない不安定な状態が続いた。
結婚は同棲(どうせい)7年目、交際から10年の歳月が流れていた。
![連載歴代最長。同一賃貸入居歴28年のふたりが大事にしてきたもの〈293〉](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2024/02/294_9891-1.jpg)
次の部屋のキャッチコピー
「私の知らない建築の本をたくさん読んでいて、腕がいい大工さんのお義父さんと同じく、彼も職人気質で仕事が丁寧。
お義母さんも朝4時からマンションの管理人をこなす働き者。
仕事も軌道に乗って、家賃を負担してくれるようになったり、マラソンや猫や共通の好きなものがお互いに増えていったり、私の両親を大切にする姿に接することで、より信頼が増していった感じでしょうか」
彼のバイク事故や、流産など試練もあった。
が、なにがあっても、彼は自分にとって宝だと言い切れるまでになったのは、生命力と生きていくための知恵の深さが感じられるからだ。
「1年前かな。どんな洗剤を使っても、何をどうしてもとれなかった洗濯機フィルターの金具の汚れを、彼がピカピカにしていたのです。
どうしたのと聞いたら、“力を入れず、たわしでただただこすり続けただけだよ”と。
暮らしの知恵っていうのかな。
些細(ささい)なできごとですが、私が惹かれたのはこういうところだなと思いました」
7年前、事業継承して会社代表になった彼は、毎朝5時半に家を出る。
その前に洗濯と台所の片付けを済ませる。
彼女が何度も失敗して諦めていたぬか漬けは、「大好きななすが食べたいから」と彼が再開した。
冷蔵庫には、ていねいにキッチンペーパーで覆われたぬか床が。
夕飯は、先に帰宅する彼がおかずを1品作り晩酌を始めている。
後から帰宅する彼女がごはんやおかずを整えて、卓を囲む。
62歳と54歳。
日本人の多くは、連れ合いを人前で褒めたがらない。
こういう夫婦が増えたら、時代の空気も変わりそうだなと率直に思った。
「だんなさん」と呼ぼうが、家賃をどちらが負担しようが、ふたりの幸福のものさしはぶれない。
曖昧(あいまい)で不安定だった結婚までの若いふたりをずっと見てきた古い部屋との別れが近づいている。
次の部屋の不動産サイトの物件キャッチコピーが、『この空気感!』だったとか。
30余年前に、東松原で感じたふわんと優しい空気が新天地にも息づいているようだ。
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