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世界屈指のインフラ整備力! 江戸城に通じる「玉川上水」とは
城郭ライター
小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。 …
江戸城は、日本最大級かつ江戸時代初期における最高峰の技術が結集した城だ。
1590(天正18)年に江戸入りした徳川家康が、江戸幕府を開府した1603(慶長8)年から本格的に築いた。
江戸城と江戸城下町の土木工事の規模はすさまじく、織田信長や豊臣秀吉のそれとは比にならない。
その秀逸さと独自性は語りきれないのだが、今回は後に世界的巨大都市となる江戸の都市開発力、その一端である上水システムに着目して玉川上水を紹介したい。
江戸幕府のインフラ整備力は世界的にもトップクラスといえ、とりわけ上水ネットワークの構築は現代の日本の都市水道における嚆矢(こうし)といえる興味深いものなのだ。
江戸城は武蔵野台地の東端にあり、西側の沖積台地に武家地、東側の沖積低地に町人地を置いていた。
西側の沖積台地は七つの台地(丘)と谷地が交錯し、河川が谷を刻む複雑な谷戸地形だ。
だから、東京山の手に谷戸と谷戸をつなぐ坂が多い。
江戸城の内濠(うちぼり)にあたる牛ヶ淵や千鳥ケ淵などは谷戸を利用してつくられており、清水濠や平川濠、大手濠などの内濠も小さな谷戸をつなぐようにして整備された。
河川が注ぐ江戸湾は、中世から関東の大動脈であった荒川と旧利根川の河口部でもある。
家康が江戸入りした頃、現在の日比谷あたりは半島状に突き出す江戸前島に挟まれた「日比谷入り江」という入り江だった。
その範囲は、JR浜松町駅あたりから芝大門、新橋、日比谷公園、皇居外苑、大手町西部まで及んでいた。
江戸入りした家康は、まず物資の輸送経路となる道三堀を開削し、日比谷入り江の最奥部と平川を結ぶ運河をつくっている。
同時に、製塩業の中心地である行徳と江戸を結ぶ小名木川を開くなど、運搬ルートを確保した。
そして、本格的な築城が始まると日比谷入り江を埋め立てている。
防御上の理由もあるのだろうが、おそらく家臣団の居住空間や城地の確保が主目的だろう。
上水源となるため池をつくり、江戸前島に外濠を掘って城と城下町の区画を整理。
舟入堀を設けたり神田川の原型を整備したりするなど、後の大都市・江戸につながる土台がこの頃に着々とつくられていった。
江戸の生活用水をまかなえ! 工事の中心担った「玉川兄弟」
5カ国の大大名だった家康の江戸転封は、家臣団の大移動でもある。
人口の増加によりまず必要になったのが、生活用水の確保だった。
海岸に近い江戸の町からは井戸を掘っても塩分の強い水しか出ず、飲用水には適さない。
そこで1590年に小石川上水がつくられ、これをもとに神田上水が完成した。
神田上水は自然湧水(ゆうすい)から出た井の頭池(現在の井の頭公園)を水源とし、小石川の関口大洗堰(せきぐちおおあらいぜき)から分流して水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)に送水され、御茶ノ水の懸樋(かけひ、万年樋とも)に送られて神田方面の武家地や町人地へ配されるしくみだった。
JRの駅名にもなっている「水道橋」の名は、神田上水を神田川を渡すために設けられた掛樋が由来だ。
しかし、3代将軍・家光のときには、参勤交代などにより江戸の人口は爆発的に増え、水不足は深刻化した。
それを受けて4代将軍・家綱のとき、1653(承応2)年から開発されたのが玉川上水だった。
羽村(東京都羽村市)から四谷大木戸(新宿区)まで、全長約43キロに及ぶ上水道がわずか8カ月で完成した。
玉川上水は、ポンプなどを使わず高低差のみで水を運ぶ自然流下式だ。
上から下へと流れ落ちる水の原理にまかせ、自然の地形を利用して送水する。
全長約43キロに対して高低差はわずか92メートルほどしかなく、100メートルごとに21センチしか掘り下げられない計算になる。
工事の詳しい技法は記録がなくわかっていないが、かなりの測量技術があったのは間違いない。
江戸幕府から6,000両の資金を与えられて工事に着手したのは、庄右衛門(しょうえもん)と清右衛門(せいえもん)の町人兄弟。
かなりの難工事で資金が足りなくなり、自分たちの家を売って工事費に充てたという。
二度の失敗を経て、川越藩家臣の安松金右衛門が完成させたという説もある。
取水と水量調整のかなめ「羽村堰」
玉川上水と同時に建設された羽村堰を訪れてみると、取水のしくみや工夫に驚かされる。
やや上流の丘陵に多摩川の流れがぶつかることで、水が集まりやすい地形だ。
比較的標高も高く、失敗を経て取水地に選ばれたという。
1791(寛政3)年にまとめられた上水の管理・運営に必要な情報を記した『上水記』や、1833(天保4)年の江戸後期の記録『羽邑(はむら)臨視日記』から、羽村堰の細かな構造や管理の実態を知ることができる。
取水口には、二つの水門(一の水門と二の水門)がある。
堰と直角に設けられた一の水門で多摩川から水を取り入れ、30メートルほど下流にある二の水門で水量を調整するしくみだ。
羽村市郷土博物館に再現された一の水門を見ると、「差蓋(さぶた)」という板がついている。
一の水門には35枚、二の水門には42枚あり、この板を上下させることで水量を調整していたという。
羽村堰の最大の特徴は、水量をコントロールする「投渡」だ。
「投渡木(なぎ)」と呼ばれる丸太を横に渡して木の枝や砂利などを絡ませた、取水口に置かれたついたてのようなものである。
多くの水を集めて水門に導くことができ、一方で洪水時には取り払えば水位の上昇や水門の破壊が防げる。
江戸時代から今日まで同じしくみで稼働する、土木学会選奨土木遺産にも認定されている技術でもある。
「出し」も、水流を巧みに分ける装置だ。羽村堰から福生(ふっさ)境の新堀までの玉川上水は土手で保護されていたが、その土手に洪水が押し寄せればひとたまりもない。
そこで、水流を対岸方向へそらすように木材を組み立てた装置が設置されていた。
『上水記』を見るとかなり広範囲に設けられており、とりわけ投渡直下の「壱之出し」は約200メートルに及ぶ。
かつ、江戸時代に主流だった石製ではなく、水がある程度通り抜ける枠類や蛇籠(じゃかご)などが用いられていた。
玉川上水の開削に貢献した玉川兄弟は、その功績により玉川の姓を与えられて200石で武士に取り立てられ、上水の管理を行う役職に任命されている。
江戸幕府は水番所(陣屋)と呼ばれる出先機関を4カ所(羽村、砂川村=東京都立川市、代田村=世田谷区、四谷大木戸)に設置し、役人を常駐させていた。
いわば国営の玉川上水の管理事務所といったところだ。
その指示のもと、水番人が堰の保護や修繕、水量調整などの管理業務を行っていた。
水番所のひとつ、羽村陣屋跡で羽村水番人を務めた指田家が記した『指田家文書』などから、その業務内容をうかがい知れる。
堰の見回りから修繕・修復、道具の維持・管理、増水時には急流のなかで差蓋を取り外すなど、なかなか過酷な仕事だったようだ。
陣屋門の隣にある玉川水神社は、玉川庄右衛門・玉川清右衛門が創建し、幕府が管理したという。
かつては取水口の西側にあり、『羽邑臨視日記』にもその姿が描かれている。
「樋」と「枡」、ハイテク配水システム
こうして玉川上水を通じて四谷大木戸に運ばれた上水は、江戸城の本丸などへの水道、真田濠・弁慶濠の土手際を通って溜池へ流れる水道の二つのルートで送水された。
大名屋敷や増上寺、大名庭園などにも利用されていた。
驚くのは、その配水の技術だ。地中に網目のように張りめぐらされた樋(水道管)に、木製の「木樋(もくひ、きどい)」が多く用いられていることだ。
東京都水道歴史館(文京区)などに、発掘された実物が展示されている。
木材は固く腐りにくい松やヒノキで、中心部はくりぬかれ水を通す空洞になっていた。
さまざまな大きさや形の木樋が、継ぎ手で連結されながら江戸中の水道管を構築。
木樋から水が漏れないよう、合わせ目や継ぎ目には槙肌(まいはだ)というヒノキや杉の内皮を砕いてやわらかい繊維にしたものが詰め込まれていた。
「枡(ます)」のはたらきも見逃せない。
樋と樋をつなぐ四角い箱のようなもので、いわば水道のターミナルにあたる。
たとえば木樋で運ばれてきた水を枡に一度ため、その樋より高い位置に別の樋を設置することで水位を上げられる。
樋を取り付ける位置を駆使すれば、水流の方向転換も自由自在だった。
もっとも驚くのは、逆サイフォンの原理を用いた水道管だ。
スタート地点より高いところを通ってゴール地点まで液体を移動させるサイフォンの原理とは真逆で、スタート地点から一段下がったところを通らせてゴール地点まで水を送る。
気密性の高い木樋をつくって真空に近い状態にすることで、一度下がった水を再び浮上させるのだ。
こうして江戸の街に送られた水は、町中に設置された上水井戸にためられ、つるべでくみ上げて使われた。
江戸城の和田倉門渡櫓西側に忘れられたように残されている、井戸のような方形の石樋は「分水石枡(ぶんすいいします)」という。
江戸城内から西の丸下曲輪を経由して大名小路曲輪へと送水するための、水道管の向きを変える装置の一部だ。石枡には2辺に凹部分があり、よく見るとへこみの高さが異なる。
この石枡は地中にあって、へこみが高いほうから木樋で水が送られ、一度貯水され飲料・食用として利用された。
石枡が満水になると、低いへこみ部分から次の場所へと木樋で送水される。
1994(平成6)年度の発掘調査では、和田倉噴水公園の地下から上水と井戸6カ所が見つかっている。
井戸は方形の分水石枡から円形をした木製の木枠で立ち上がり、室内や井戸屋形内に水を提供していた。
武蔵野台地に潤い、総延長150キロに
1655(明暦元)年に玉川上水初の分水である野火止(のびどめ)用水が引かれると、それまで水が乏しく人が住めなかった武蔵野台地に潤いがもたらされ、多摩川沿いや狭山丘陵の周辺の村が開かれるようになった。
現在も残る田村分水(東京都福生市)は、その名の通り田畑の灌漑(かんがい)用水として地域を潤し、また精米を行う水車の原動力として重宝されたようだ。
分水のすぐ近くには洗い場も残っており、生活用水として使われていた頃のようすが目に浮かぶ。
17世紀半ばには、地下式上水道としては世界最大の上水道にまでなり、総延長は150キロにも及んだという。
「水道の水で産湯を使った」とは、江戸っ子が江戸生まれを自慢するときのセリフだったとか。
ハイテクな配水システムは、百万都市・江戸の象徴のひとつだったのかもしれない。
(この項おわり。次回は3月18日に掲載予定です)
#交通・問い合わせ・参考サイト
■江戸城(皇居東御苑)
https://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html(宮内庁)
■羽村堰
https://www.city.hamura.tokyo.jp/category/7-23-0-0-0-0-0-0-0-0.html(羽村市郷土博物館)
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