【以下ニュースソース引用】
小谷実可子さん、競技引退後「何のために生きればいいか」答えを探し続けた
1988年に開かれたソウル・オリンピック。
開会式の旗手を、日本選手団の女性として初めて務めたのが、シンクロナイズド・スイミング(現アーティスティックスイミング)で活躍していた小谷実可子さんだった。
ユニホームの赤いジャケットに身を包み、日本選手団の先頭で楽しそうに旗を振るキラキラした小谷さんに、日本のアスリートのイメージが大きく変わったことを覚えている。
この大会では競技でも、ソロ、デュエットの両方で銅メダルを獲得。
4年後、バルセロナ・オリンピックで引退するまで、この世界のトップを走り続けた。
そんな小谷さんに、引退から5年後の「30歳のこと」を聞いてみた。
「何でもかんでも挑戦」探した答え
「引退後、うわーっとさまざまな仕事に挑戦して、自分にとって何が大切なものなのか、わかりかけてきたのがこの頃。恩師から『女は30歳から。30代は楽しくなるわよ』ということをずっと聞かされていましたけど、まさにその言葉の通りでした」
引退後の小谷さんの活動を聞くと、「うわーっ」という言葉が似合う。
国際オリンピック委員会のアスリート委員やアジアオリンピック評議会のアスリート委員長など公的な仕事に加え、その後、10年近く続いたイルカやクジラを取材する仕事をスタートさせたのもこの頃だった。
「リポーターやキャスターの仕事もしていたので、国際大会があると現地へもよく行きました。
なんかもう海外から海外で、飛行機に乗って目が覚めたとき『私どこの国に向かっているんだっけ?』(笑)という状態」
引退に迷いはなかった。
バルセロナ・オリンピックが補欠で終わり、「もう私は日本チームに必要とされない存在になった」と感じた悔しさや、「シンクロ界の役に立てない」という悲しみでいっぱいに。
「何でもかんでも挑戦してみることで、これから私は何のために生きていけばいいのかという答えがほしかったんだと思います」
そんななか、子供のためのシンクロ教室もスタート。
シンクロを楽しんでいる子供たちとプールで過ごす時間が、自分の人生の柱のような存在に感じるようになっていった。
例えば1週間、どんなに海外の予定が詰まっていても、教室がある週末には必ず帰国。
1回お休みすることはあっても2回続けて休むのはやめようと心に決めて、たとえ地球の裏側にいても、「13日以内」には必ず帰って子供たちと過ごした。
「私の人生のすべてだったシンクロナイズド・スイミングというものに挑戦している子供たちが、できなかったことができるようになると、ものすごく輝くんですよね。そうして成長していく子供たちを見るのが何よりの喜びでした。この仕事は大事にしなければ……そう強く感じたんです」
小谷さん自身に子供の頃からついた呼び名は「練習の虫」。
練習しすぎてかえって演技に支障がでることもあるほど、とにかく練習を重ねた。
それでも苦手なものに向き合って、コツコツ100%の努力で練習すれば、何かしらの結果はついてくると信じていたという。
「一方、努力をしてもすぐに結果が出るものばかりじゃない。それでも待って待って結果が出ると、喜びもひとしお。ああ、神様はこの瞬間のために私を遠回りさせたんだ、苦労は神様からの贈り物なんだと思うようになったんです」
現役を引退して「陸に」あがり、さまざまな仕事をするようになっても、これ以上できないというところまでやらないと気が済まない性分だ。
シンクロ以外の仕事でもコツコツ100%の努力を続けると、ある日「苦労は神様の贈り物」と思える日がくることがわかったのも、30歳を過ぎてからのことだった。
「自分が20代だったとき、30歳ってものすごい大人の響きがありましたよね。30歳は大人、40歳は師匠、50歳はもう……みたいに考えていた。今、私57歳ですけど、その私が20代だったソウル・オリンピックのときより難易度の高い演技ができて、でも全身筋肉痛になっている(笑)なんて、誰も想像しなかったですよね」
「人生で一番きつい一年間」
実は小谷さんは50歳をすぎてからアーティスティックスイミングのマスターズに挑戦し、現在も現役選手として活躍している。
きっかけは世界大会の自国開催が決まったことだった。
「何かの種目に出て盛り上げちゃう?」みたいなノリで、少しずつウォーミングアップを始めた。
ところがそんなとき、招致活動にも深く関わっていた東京オリンピック2020のスポーツディレクターや、ジェンダー平等推進チームのリーダーなど運営側の大役を引き受けることに。
これが、百戦錬磨の小谷さんが「人生で一番きつい一年間」と振り返るほどの苦労の日々だった。
「私が入ったのは、1年後に大会延期が決まった後のこと。日程も場所も時間帯も、そのまま1年後にスライドできることが決まっていたので、それほど深刻に考えることなくお受けしたんです。ところが……」
会社員経験もなく、毎日オフィスに行くことすら初めての経験。
そうして戸惑っているところに、コロナはますます猛威を振るい、開催に反対する声も大きくなっていった。
「オフィスから出るときはオリンピックのロゴマークを隠したり。
本当なら大好きなオリンピックを開催するお手伝いができる、うれしさいっぱいのはずの運営の仕事なのに、これを進めていていいのだろうかという迷いの中で進むのが、すごく辛かった。でも何とか大会が始まると、アスリートがその人生をかけて楽しみにして頑張ってきたこのオリンピックをよくぞやってくれたってと喜んでもらえた。それはそれはうれしかったです」
神様から贈られた史上最大の“贈り物”だった。すべてが終わり、スポーツディレクターなどの役職から退任するころには、燃え尽き症候群にも似た放心状態に。
そんな小谷さんが再び取り組んだのが、オリンピック前にも準備を始めていた、マスターズ出場の夢だった。
世界マスターズ、3種目で金メダル
そうして2023年8月に九州で開かれた世界マスターズ水泳選手権に出場。
ソロ、(アテネ五輪の銀メダリストの藤丸真世さんとの)デュエット、チームの3種目に出場し、すべての種目で金メダルを獲得するという快挙を成し遂げた。
「日々上手になれるんです。最初は、足をピッと伸ばすだけで、それはもう“足のつり”との戦い(笑)。でもだんだん身体もできてきて、昨日は30分で足がつったのに、今日は1時間持つようになり、次の日は2時間持つようになり。気が付いてみたら、もうソウル・オリンピックの時よりも何倍も難しい演技が去年の時点でできるようになった。この年齢でこんなに成長できたことがうれしくて、これで終わってはもったいないと今年も2月にドーハで開かれる大会に出ることになりました」
そして今回、安部篤史さんとの混合デュエットで使われる曲が、映画「ラ・ラ・ランド」の主題歌「Another Day of Sun」。昨年も藤丸さんとのデュエットで使われた曲だ。
「今日も午前中ずっとこの曲で、もうボロボロになるまで(笑)練習していたんですよ。最初は去年藤丸さんとのデュエットで使ったこの曲を、安部さんと試してみたら、どこか混合には合わなくて。でも優秀なコーチに少しずつ直してもらったら、今日もグングン、ノリノリに。リズムに合ったいい振りができて張り切っちゃったので、今ボロボロなんですけどね(笑)」
「ラ・ラ・ランド」の登場曲はすべてお気に入りという小谷さん。
「メドレーで泳ぎたいほど、曲はどれも好きですね。それから今ふと思ったんですけど、主人公のセブ(セバスチャン)の寡黙で、テンションが低くて、でも熱い思いを持っていて……というところが、今の私のパートナーの安部選手にすっごい似ているんですよ」
そんな二人がまさにシンクロする混合デュエットに期待だ。
PROFILE
小谷実可子
1988年ソウル五輪シンクロナイズド・スイミング(現アーティスティックスイミング)銅メダリスト、初の女性旗手を務める。国連総会に民間人として初めて出席し、五輪停戦採択のためのスピーチをした経験を持ち、五輪・教育関連の数々の要職に就く。世界大会のリポーター、東京2020招致アンバサダーを務め、自身がコーチを務めるクラブでは後進の育成に尽力している。