【以下ニュースソース引用】
信長に先立つ石垣! 中世近江の激動を伝える、六角氏の巨大山城 観音寺城
![](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/a05bac3f29529e0405f75c5c328d1f41-1.jpg)
![萩原さちこ](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2021/04/517d9294f68b2bdd87e0624df1776ee9.jpg)
城郭ライター
小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす …
観音寺城(かんのんじじょう、滋賀県近江八幡市)は、城ファンならば「一度は訪れてみたい」「また登りたい」と憧れを抱く城ではないだろうか。
近江守護の佐々木六角氏が居城とした戦国屈指の巨大山城であり、織田信長の安土城に先駆けて総石垣を実現していた城だ。
守護の城の構造、地域支配のあり方、聖域を取り込む事例としてなど、興味が尽きない魅惑だらけの城である。
360度の眺望、南近江を支配した六角氏
広大で見どころが多く、訪れるたびに膨大な時間を費やしてしまう。
まず、その立地がたまらない。
城のある標高432メートルの繖山(きぬがさやま)は、周囲に遮られるものがなく全方位に眺望がきく。おそらく古くから象徴的な存在だったのだろう。
南側には、京都と東国を結ぶ幹線道・東山道(近世の中山道)が東西に通り、東麓(とうろく)の城下町を五箇荘方面へ抜けていく。
また、西側の琵琶湖畔にあった常楽寺は、中世からの琵琶湖舟運の湊。つまり、陸・水運を掌握した好立地であるのは間違いない。
佐々木六角氏は、宇多源氏佐々木氏の総領家にあたる守護大名だ。
現在の沙沙貴神社あたりの佐々木荘に源成頼が土着したことで、子孫が佐々木氏を名乗るようになったとされる。
はじめは鎌倉時代に東山道の宿駅だった小脇(おわき、滋賀県東近江市)に屋敷を構えたと考えられ、箕作(みつくり)山南麓の小脇館からは幅8〜11メートル×深さ約2メートルの濠跡が検出されている。
近江源氏と呼ばれる佐々木氏は、13世紀に四家に分かれる。このうち、佐々木信綱の跡を継いだ三男・泰綱の系統が六角氏である。
「六角氏」と呼ばれるのは、京都の六角東洞院(ひがしのとういん)に屋敷が与えられたことが由来だ。
これに対し、京都の京極高辻に屋敷があったことから京極氏と呼ばれたのが、四男・氏信の系統。
六角氏が近江の守護職を継承し南近江を支配するが、京極氏も六角氏と双璧といえるほどの勢力を誇り北近江を支配した。
![観音寺城から見下ろす、石寺、東山道、小脇方面](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/4a6b71ab5770ab770808c79f9a47d2b0-1.jpg)
観音寺城を訪れるときは、繖山の観音正寺(かんのんしょうじ、観音寺)を目指すことになる。
西国三十三所の三十二番札所であり、推古天皇の時代に聖徳太子が創建したと伝わる寺院だ。
観音寺城の城郭化にともない山麓に移転され、慶長年間(1596〜1615)に現在の地に本堂が建立されたという。
だいぶ拡幅されており、削平地も石垣も中世のものではない。
14世紀半ば、南北朝の動乱期に六角氏はたびたび観音寺にこもって戦い落城もしている。
しかしこの頃の観音寺城は「山寺」とも記され、あくまで寺院空間として認識された臨時の城だったようだ。
室町時代に入ると軍事利用の頻度が増し、1467〜1477(応仁元〜文明9)年の応仁・文明の乱を経て、六角氏の城へと位置付けを変えたとみられる。
15世紀後半からは、門前の石寺を城下町として整備しはじめている。ちなみに石寺には楽市である石寺新市があり、六角氏が出した文書も残っている。
![観音正寺](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/b8d835bf5602f70a2269ddd515fe55ad-1.jpg)
当初、行政拠点は別に置かれた?
ここで、気になることが二つある。
一つは、六角氏が観音寺城を行政的な拠点とはしていないことだ。
六角氏が拠点としていたのは、金剛寺城(金田館・金剛寺/滋賀県近江八幡市)だった。
1491(延徳3)年に六角高頼が足利義稙(よしたね)に攻められ撤退した後に細川政元の家臣・安富元家が改修し統治の拠点としていること、その後に近江守護になった佐々木一族の越中氏(佐々木信綱の次男の系統)が守護所としていることなどからも、それは明らかだ。
金剛寺を行政拠点、観音寺を軍事拠点として使い分けをしていたようだ。
もう一つは、1487(長享元)年の足利義尚による第一次六角征伐および1491年の足利義稙による第二次六角征伐の際、六角高頼が甲賀・伊賀方面へ逃れていることだ。
観音寺城にこもって抵抗し続けず、支配領域内の抵抗拠点を活用して勢力を蓄えて巻き返しを図っている。
六角氏は1568(永禄11)年に織田信長に攻められ没落するが、この際も、六角義賢(よしかた)・義治父子は支城の箕作城(近江八幡市)が落城した翌日には観音寺城から逃亡し、家臣・三雲氏の三雲城(滋賀県湖南市)に入っている。
おそらく、甲賀郡で態勢を整えて再起を図るつもりだったのだろう。
結果的に、家臣団の統率力が低下しており在地領主たちに見限られてしまったが、1563(永禄6)年の観音寺騒動時にも六角義賢は三雲氏の館にかくまわれており、軍事的な基盤のあり方を探ることができる。
戦国時代になると、観音寺城はさらに大きく変化していく。15世紀後半の六角氏は幕府との対立に追われていたが、16世紀になると分国支配が進み、それにともない観音寺城も行政的な性格が濃くなっていったのだ。
観音寺城は地域支配の拠点となり、裁許を求めて登城する寺社勢力や地域民を担当の家臣が対応する場ともなった。
こうした家臣たちが、城内に屋敷を構えていたとみられる。
あくまで後につけられたものだが、観音寺城内の曲輪名が「平井丸」「伊庭丸」など被官名にちなむのはそのためだ。
また、六角氏が室町幕府の政治に深く関わった影響から、京都の公家や寺僧も訪れていたことがわかっている。
酒宴や連歌会など、文化的な催しもしばしば行われていたらしい。1532(天文元)年に六角定頼が室町幕府12代将軍・足利義晴を繖山西側中腹の桑実寺(くわのみでら)で庇護(ひご)している
ことからも、幕府との親密な関係性がうかがえる。
ただし六角氏は在京せず観音寺城に在城しており<信長も訪れた“三好政権”芥川城、秀吉と家康が掌握した高槻城>で触れた三好政権を連想させる。
![大石垣。眼下には城下町の石寺や東山道が見える](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/3aaac0fe67dc3e446f572158eb181360-1.jpg)
石垣にみる、高い技術力
注目したいのは、この頃の六角氏の城づくりと技術力だ。
1556(弘治2)年、六角義賢は金剛輪寺(滋賀県愛荘町)に観音寺城の石垣普請を命じている。
冒頭で触れたように、観音寺城は信長以前に成立していた本格的な石垣の城だ。
城内では522カ所で石垣が確認され、桑実寺などを含めると倍近くの石垣が存在する。
六角氏は寺院に用いられた石材加工の技術を、観音寺城をはじめ領内の城に用いたようだ。
とはいえ、近江の山岳寺院ではこれほど高さのある石垣は見かけない。
また、観音寺城の石垣を分析すると、30メートル前後の長大な石垣や5〜7メートルの高石垣は外縁部に集中しており、防御線として用いたと考えられる。
また、虎口周辺の石垣が視覚効果を意識して積まれていることも見逃せない。
単純に寺院の石垣を導入したのではなく、城郭の石垣として取り入れたのだろう。
支城の石垣にも着目しておきたい。繖山の北東尾根先端にある佐生城(さそうじょう、滋賀県東近江市)には、観音寺城をほうふつとさせる見事な石垣が残る。
単郭の小規模な城ながら、東側にある和田山城と連動して観音寺城北側の防御線となっていたとみていいだろう。
そのほか、六角氏家臣・永原氏の小堤城山城(滋賀県野洲市)や、三雲氏の三雲城も、六角氏と関連する石垣の城だ。
どちらも観音寺城から甲賀郡へ抜ける間道を押さえる位置にあり、六角氏が築造に関わっていた可能性が捨てきれない。
![伝本丸跡の裏虎口](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/d19a4900cac3b35564df708ea1854393-1.jpg)
削平地の多さや石垣、曲輪……謎多い構造
観音寺城は不思議な構造で、今後さまざまな観点から解明されるのが待ち遠しくもある。
城域は、繖山山頂から南東方向にのびる主稜(しゅりょう)線と南西方向にのびる稜線、2本の尾根上と周辺の谷筋に広がり、広大な範囲に大小無数の曲輪(平坦〈へいたん〉地)が階段状に構築されている。
寺院の坊院も含まれどこまでが城の曲輪かは判断が難しいが、その削平地の数には驚くはずだ。
谷筋に広がる削平地は、美濃守護・土岐氏の大桑城(岐阜県山県市)や、越前朝倉氏の一乗谷城(福井市)との共通項が見いだせる。
山岳寺院によく見られる、谷筋に直線的な道路を通し、その道筋に削平地を並べる構造だ。
南東方向にのびる尾根上の北東面には「大土塁」と称される土塁が続く。
素直に捉えれば北側の大防衛線なのだろうが、東山道とは真逆の方向にあるため釈然としない。
城の東端にある伝布施淡路丸は、土塁と石塁でしっかり囲まれた大規模な曲輪で、虎口(出入り口)は防御性の高い枡形状になっている。
被官・布施氏の屋敷跡といわれるが、東方向を監視・防御する要の曲輪だったのかもしれない。
![石寺から見上げる観音寺城](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/2fa95a20b8c1b5a1c187dd06bc9a9260-1.jpg)
城の中心部は、南西方向に伸びる尾根にあったと思われる。
伝本丸、伝平井丸、伝池田丸などと呼ばれる曲輪群だ。
曲輪の面積が広く、石垣の分布も集中している。
石材も大きく、積み方の精度も高い。とりわけ伝平井丸の虎口は、城内最大の巨石が用いられ、かなり立派な構えだ。
伝本丸、伝平井丸、伝池田丸では発掘調査が行われ、伝本丸では礎石建物跡、伝平井丸では庭園跡、伝池田丸では石組み溝がめぐる礎石建物跡が検出されている。
文献史料からも、山上に居住空間があったことは明らかで、出土遺物からも屋敷跡だった可能性が高い。
![伝平井丸の南西隅角部と西面の石垣](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/1b0dd79cf826690a4045cecef066b762-1.jpg)
城内にはさまざまな様相の石垣があり、興味が尽きない。
隅角部も、伝平井丸の虎口や伝池田丸南面下大石垣の虎口のように立方体に近い石を重ねていく積み方もあれば、権現見付のように算木積みに近いものもある。
平井丸南面のように縦目地が通る積み方もあれば、そうでないものもある。
どちらが古いかは判断が難しいが、前者は谷筋にはなく尾根上の曲輪に多いようだ。
伝池田丸や伝池田丸下の大石垣などには矢穴の跡も残る。
伝木村丸南面や伝池田丸南面に残る、トンネル状の「埋門(うずみもん)」も、観音寺城の特徴といえる虎口だ。
幅90センチ、高さ1.2メートルほどの口が石塁に開けられている。
![伝池田丸の埋門](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/b1c62d93061f9e1e6dac3935f259d5a7-1.jpg)
曲輪間のつながりもよくわからない。
これまで伝本丸への大手道と考えられてきた大石段も、発掘調査では下方から大石段に通じるルートが確認できなかった。
登城道はいくつかあったと考えられるが、御屋形跡から通じる表坂道がもともとの大手道である可能性が高い。
石寺から観音正寺へ通じる赤坂道の途中にも、石垣をともなう城門がある。
本谷道、伝平井丸の虎口前に通じる宮津道、東側から観音正寺に通じる川並口道などのほか、谷筋にもいくつか道筋があったようだ。
虎口は平虎口が多く、石垣を用いた城門(見付)を持つ。
伝本丸の北西側にある虎口は喰い違い虎口になっているが、後世に改修された可能性があるようだ。
![御屋形跡の石垣(修復)](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/175b5e1e8ae7b0117cdeb0cc222bf00d-1.jpg)
城域に「聖地」を取り込む
観音寺城で特筆すべきは、城域に「聖地」を取り込んでいるところだ。
観音寺はこれまで、城郭化にともない山麓に移転し、廃城後に山上に戻されたとされてきた。
城と寺院は切り離されて捉えられてきたのだ。
しかし、近年は城と寺院は共存していることが明らかになってきた。
観音正寺の北東にある奥の院は、巨石信仰に基づく磐座(いわくら)からなり、平安時代後期の磨崖仏が刻まれている。
繖山は古来、信仰の対象としてあがめられてきたのだろう。
たとえば<圧巻! 関東屈指の戦国山城 金山城(1)>で紹介したように金山城(群馬県太田市)も日の池を取り込んでおり、戦国時代の城が聖地を取り込むことは珍しくない。
この行為こそ、地域の承認をうけ、社会秩序の上に存在を位置付ける方法だったと思われる。
![奥の院](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/af70277a54b3b097c28b1a309ad6d83c-1.jpg)
六角氏と観音寺城は、信長によって終焉(しゅうえん)を迎える。
室町幕府の後ろ盾となっていた六角氏だが、近江の在地領主との主従関係を強固にできなかった。
1563年、六角義治が家臣の後藤賢豊(かたとよ)を謀殺する「観音寺騒動」が勃発すると、在地領主たちは観音寺城内の屋敷を焼き払い六角氏のもとを離れてしまった。
六角氏は1567(永禄10)年に「六角氏式目」を制定しているが、六角氏が発布した法令というより、もはや六角氏と在地領主たちとの契約に近かったようだ。
そして翌年、信長により観音寺城を追われ、近江支配権の奪還を狙うも二度と戻ることはなかった。
信長は、観音寺城と尾根続きの安土山に1576(天正4)年から安土城の築城を開始している。
東山道とは真逆の北西側に選地したのは、琵琶湖の水上交通を重視してのことだろうか。
かつての安土山は琵琶湖に突き出しており、常楽寺にも近い。安土城の石垣の石材は繖山からも運ばれたが、これだけ至近距離にありながら、なぜ観音寺城の石材は運ばなかったのだろうか……。
観音寺城には、中世近江の激動、さまざまな時代の姿をひも解くヒントが眠っている。
(この項おわり。次回は2月19日に掲載予定です)
#交通・問い合わせ・参考サイト
■ 観音寺城 https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/bunakasports/bunkazaihogo/312345.html(滋賀県)
■ 繖山 観音正寺 http://kannonshoji.or.jp/(観音正寺/日本遺産「1300年つづく究極の終活の旅」構成文化財)*宗教的な空間につき、観音寺城見学の際はくれぐれもご配慮ください
フォトギャラリー(写真をクリックすると、詳しくご覧いただけます)
![観音寺城の伝平井丸の虎口=滋賀県近江八幡市](https://www.asahicom.jp/and/data/wp-content/uploads/2023/12/a05bac3f29529e0405f75c5c328d1f41-1.jpg)
10